積読だった本。
取り上げられるのは田山花袋、志賀直哉、宇野浩二、芥川龍之介、横光利一、太宰治、椎名麟三。
どういう理由でこの古書を買ったか、もはや思い出せない。
まず花袋。
「蒲団」について。
登場人物の関係性から、「蒲団」はよく指摘される実際の出来事をそのまま描いた私小説ではないと後藤明生は論じている。
形容矛盾だが、むしろフィクショナルな私小説で(p61)、新・旧世代の価値観の対立が描かれているという(p63)。
またいわゆる私小説らしさが無い例証として、情景をしっかりと描きこんでいることに注意を促している(p50-51)。
読んだ時は主人公の心理描写ばかりだったように記憶しており、いかにきちんと読んでいなかったかを反省させられた。
ところで「蒲団」は、ハウプトマンの戯曲「寂しき人々」という作品を下敷きにしているのだそうだ。
「蒲団」を再読したくなった。
「寂しき人々」も探してみることにする。
志賀直哉の章は、もっぱら文体について。
知らなかったのだが「直写」といわれているのだそうだ(p68)。
私の仕事では、患者さんの話をそのまま記すことが良いこととされているので、参考になると思いながら読み進めて、ハッとした。
志賀直哉の文体では他者が出てこない。
ありのままを描写し、心情めいたものが描かれるとしても、すべて「私=作者」からの視点になる(p72-73)。
見る・見られるの関係性は描写されない(p77)。
後藤は、志賀直哉がイモリを「いい色」と表現したことに注目し、普通は「いい色と思った」と書くのではないかと小説家らしい指摘をしている(p85)。
確かにイモリの色を「いい」と肯定的に判断することが常識的とは思えない。
志賀直哉の文体は、自分にとっての「いい」は、他人にとっても「いい」と断じているのと同じになってしまう。
カルテをこちら側の視線で<そのまま>記すことは、いわば志賀直哉風の描写にならないだろうか。
他領域ならばともかく、人間関係やこころを扱う領域では、もっと工夫が必要な気がする。
宇野浩二は私の知らない作家で、本論を読んで「蔵の中」を読みたくなった。
「蔵の中」は、筋あるいは文体がどんどん逸れていくらしく、後藤はそれを意識の流れを描いていると述べている(p109)。
いわゆる意識の流れなら、私が読んだ限りで、ヴァージニア・ウルフは考えていることをそのまま描く、いわば単線の意識の流れだし、プルーストはある景色や感覚から別の逸話が広がるが、その後に本筋に戻るので、枝葉はあるが全体としてはやはり単線だと思う。
しかし宇野の場合、「アミダクジ」形式だという(p108)。
やっぱり、読んでみたい。
また、接続詞が文章の駆動力になっているという指摘は、なるほどと思う(p111-112)。
患者さんが接続詞をどのように使っているかを考えながら話を聞くと、何かヒントがあるかもしれない。
芥川龍之介については、心理描写を極めた人という論旨で、そうだろうなあと思ったのだが、横道の話が面白かった。
下町出身の芥川は、下町を美化したような作品を受け入れられなかったという。
そのため、たとえば永井荷風を毛嫌いしていた(p132)。
横光利一については仕事で考えたいので略。
彼の作品が論理で動いているという指摘は、まさに私が横光作品が大好きな理由の一つ(p163)。
太宰治は、恥ずかしながら一冊も読んだことが無い。
近親憎悪的な感情で遠ざけて、この年齢になってしまった。
なるほどと思ったのが、巨大な赤煉瓦の実家を見た後藤明生は、裕福な家とはいえ地域全体は貧しかったはずで、若き太宰治はナロードニキ的な負債感を抱えていたのだろうと述べている(p174-181)。
しかし、彼は赤煉瓦に「降伏」し、以後、作風が諧謔的になるという(p183)。
本書で取り上げられていた「懶惰の歌留多」だけは、ぜひいつか読みたい。
椎名麟三は、戦後の混乱であらゆるものが抽象化された作品を書いた作家として紹介されている。
ただ、このような作品は、第一次大戦後のヨーロッパではもはや新しいものではなかったのではと思う。
本書全体にいえるのは、後藤は様々な特徴を指摘してもそのことの是非を問わないこと。
最近の、分かりやすく「ここがダメ」と切り捨てる書評本と違って、謙抑的で上品な雰囲気がとても心地よい。
後藤明生「小説 いかに読み、いかに書くか」 講談社現代新書、東京、1983(絶版?)