日常で使わない漢字や語を多用しているため、読み終わるまでに大変に時間がかかった短編。

 たとえば

チュ(門構え+単)鐸迦と別れてから悉達多は沙門の姿となって、跋伽、阿羅邏迦マ(草かんむり+門構え+東)、鬱陀羅迦羅摩弗の諸師を訪ねて(略)彼はひとり尼連禅那河辺なる優婁頻螺の樹林に入って(疲れたので以後略)

 単漢字変換でも探し出せない漢字がある。

 

 勘助は、おそらく読者にこれらの語を理解することを求めていない。

 舞台になった古代インドの雰囲気を味あわせたいのだと思う。なので、分からないまま読めばよいのだろう。

 それにしても、人名なのか地名なのか、教えのキーワードなのか、文脈から把握するしかなく、何度も読み返した。

 

 

 仏陀つまりシッダールタの従兄弟、デーバダッタが主人公で、自己愛と、性への嫌悪が執拗に描かれる。

 

 十川幸司先生は、自己愛者が抱く主な感情は「不快」だと指摘なさっている(「フロイディアン・ステップ」みすず書房)

 自己愛者は自己満足した世界にいるがゆえに、その内面は波風がたたないだろうと思ってしまうが、そうではないことの範例が、この物語である。

 

 本作では、デーバダッタは自己愛者として描かれている(p12-13)

 彼が数十年にわたって抱く感情は、自分に対する満足などではない。

 屈辱(p23、29、126)、嫉妬、妬み(p33、50、52、93、119、133、182)、不満、不快(p66、75、94、137)

 自分への評価が、他人と比べての勝ち負け、あるいは優劣の軸に依っているため、デーバダッタの心が平穏であることはひと時もない。

 

 また、彼は相反する感情で引き裂かれる。

 シッダールタ夫人への、嘘であり真実な感情(p58-59)

 罪を認めて自分を恥じつつ、そのような自分を他人より尊いと考える(p96-97、104)

 

 このようにしか生きていけないデーバダッタは、人生を「沙漠(表記ママ)」としか感じられない。(p77)

 

 

 もう一つのテーマが過剰な性への嫌悪。 

我々は単なる性欲によって結びつけられたる多くの人間の一対を見る。彼らは交尾期における畜生が相互に好悪も適否も顧る暇なく、ただ鼻をつく異性の臭気に盲目的にひきつけられるように互にひきつけられている。(略)性欲生活の記念物なる「子供」はなお恐ろしい肉鎖となって無慙に、醜悪に、その生産者を一緒に縛して離れしめない。交尾せる犬が生殖器につながれて痴態をさらすように。(p35)

 後編に登場するアジャセ王は、忘恩を詰る父王に対して恩義など感じていないと言い捨てる。

 なぜなら

(あなたは)この人界に生れいでしめんとの慈悲をもってのゆえに私を生んだのであるか。否、あなた方はただ単に己の色欲の満足のために(略)私を生んだのである。(略)

 そして、

私ごとき子の生まれたのはあなた方にとって大なる禍であった。私自身にとっては更なる大なる禍であった(略)私は現在目前の事実上の責任者、犯罪者としての父母を呪わざるを得ない。(p153-154)

 

 ところで、因果な商売をしている私は、アジャセ王のような「勝手に生んだ責任をとれ」「生んでくれと頼んだ覚えはない」という台詞を聞かされることがある。

 現場では、このような発言を”せざるを得ない”彼等/彼女等の苦しみや悲しみに寄り添うことになるが、同時に私の中に、形容し難い感情が湧き起こるのも正直なところだ。

 そして今まで、この感情をうまく言葉にできなかったし、してこなかった。

 本書を読んで、ようやく言葉になった。

 

 自分で選択できる何かがうまくいかなかった理由が、自分で選択できない何かであることは、たぶん殆ど無い。

 もちろん全く無いとはいわない。

 

 私は粗忽者なので人の話を十分理解しないうちに動いてしまうし、自分の考えを理路整然と話すのが苦手だ。

 これは私の生来の性質で、私が選択したことではない。

 しかし、そのためにかなり生じる不具合を避けるため、考えられる限りの工夫をするという選択はできる。自分の責任で。

 

 私は生を受けた。これは私の選択ではない。

 だがこの生をどのように過ごすかは、私の選択にかかっている。

 

 アジャセ王は自分の妻子への想いは本物と考えており、夫婦や親子の愛情と、性の問題が別次元であることはわかっている。

 そのために彼は自己矛盾に苦しむ。

 「勝手に生んだ」と批判だけで済ませているのに比べれば、葛藤しているだけアジャセ王の方が”成熟”している。

 

 ところでアジャセ王のくだり、勘助は「アンティゴネー」を意識してるのではないかと感じる箇所があるが、私の考えすぎかもしれない。(法の問題p145、父王の閉じ込められている場所p156)

 

 

 最後。

 シッダールタの描写を読んでいて、勘助は仏教をどこか否定的に捉えていたのではないかと私は思う。

 いったい、仏になる(=人ではない)とは、妻の対して”あのように”ふるまうことなのだろうか?

 

 

 

中勘助「提婆達多」 岩波文庫、東京、1985