野上弥生子が若いころに中勘助に振られたという、ただその逸話から惹かれていた興味だけで、某地方都市でたまたま見つけた古本屋で購入。
「蜜蜂」は義姉への鎮魂歌。
義姉は夫と姑との間でひたすら耐え、勘助自身も兄と母との間で葛藤を抱え、二人は肩を寄せ合うように生活していたらしい。
勘助と、母との関係、兄の性質と病については、随筆集の「母の死」「遺品」に詳しい。
「蜜蜂」を読んでいて不思議だったのが、なぜか女性が書いた文章のように感じてしまうこと。
勘助本来の文章の癖ではないと思う。
随筆集の文章を引用すると、たとえば以下。
どことも疎遠な私は知らないけれども家に子供がないので母はよその孫たちを可愛がったのであろう。かわるがわる見舞いにきては枕べに坐ってゆく。そんなにされながらもはや生への執着も後に残る心配もなく、あすのおやつの果物の注文や好物のあずき粥のことを考えながらこの世を去ってゆく母は。(「母の死」p107)
ところで改めて気がついたのが、この文章が柔らかな七五調になっていること。
上の文章を以下のように区切ることができる。
どことも疎遠な私は知らないけれども//家に子供ないので母は//よその孫たちを可愛がったのであろう//かわるがわる見舞いにきては//枕べに坐ってゆく//そんなにされながら//もはや生への執着も//後に残る心配もなく//あすのおやつの果物の//注文や好物のあづき粥のことを//考えながらこの世を去ってゆく母は
最初、まったく気づかずに読んでいた。
「母は」の「は」でふと思い立ち、リズムを意識して読むなおすと、意味の区切りとずれてしまうが上のようにも読める。
なるほど、良い文章の仕組みとはこういうものか、と感嘆した。
「蜜蜂」は呼びかける形式の口語体で、文末が「ですます」の丁寧な表現。
たとえば
ほめてください。きょうから習字をはじめました。本当は二十二日の私の誕生日から始めるつもりだったけれどお客様やなにかでできなかったのです。誕生日には毎年あなたが朝顔を蒔くのでしたね。(p79)
引用だけでも、私は女性が書いた文章のように感じるが、それ以外に、しばしば記される「もし書けるようになったら御経でも写してあげましょう」(p79)という”独り言ち”や、「十年家を出ているあいだも相談にはのっていたのですよ」(p145)などの呼びかけで、私はそういう印象を受けたのかもしれない。
男だと、”独り言ち”形式の文章は、「写そうと思っています」など、完結した表現になると思う。
「写してあげましょう」という文章には、誰かに向かって開かれた雰囲気があり、私はなぜか上品な老齢女性の顔を思い起こす。
ただの偏見かもしれないけれど。
「相談にはのっていたのですよ」も、男なら「相談にはのっていたのです」と断言するか、「相談にはのっていたのですが」と”言い訳”の意図を強調するのではないかと考える。
「相談にはのっていたのですよ」に漂う上品さ。
これも私の偏見かもしれない。
そもそも”女性らしい”という言葉自体が、今やセクハラなのだろう。
私にとっては、柔らかくて品があるという意味であったとしても。
「蜜蜂」とその続編にあたる「余生」、「蜜蜂」の前日譚にあたる随筆集収載の「氷を割る」で繰り返されるのが、当時の家族制度に抱いていた勘助自身の激しい憎悪(「氷を割る」p119)。
「封建的陋習」(p150)「忠孝一義を説き(略)家族のなかに(略)現人神を設けようとするかにみえる愚挙」(p187)、ほかにも「律法」という言葉が何度も何度も使われる。
ドイツ留学、そして若くして帝大医学部教授になった実兄の横暴と傲慢、それに加担する母をはじめとする一族の仕打ち。
<長男>がまだ特別な地位だった時代。
出会った誰からも愛されたという義姉と勘助は、三十数年、苦楽を共にした。
二人のことをある親族が、ブラームスとクララ・シューマンのようだと言ったという(p67)。
義姉が亡くなったその年に、勘助は53歳で結婚する(随筆集 年譜から)。
蛇足だけれども、「蜜蜂」でメンタルヘルス的に興味深い点が一つ。
義姉を亡くしてから書き始めた日記という体裁なのだが、それまでは「書くことによって慰められ、救われた」のに、3週間後に急に「それさえ堪えがたくなってきた」という(p53-55)。
何らかの心の傷を早い時期に想起してしまうことが有害なのは知られているが、勘助のこの一文が証になっている。
それから随筆集の「夏目先生と私」は漱石ファンなら一読の価値あり。
中勘助:蜜蜂・余生 岩波文庫、東京、1985
渡辺外喜三郎編:中勘助随筆集 岩波文庫、東京、1985