仕事に使おうと「女哲学者テレーズ」を読み終わったが、時間を無駄にした気が。

 人文書院から出ていたことに驚き。国書刊行会かと思っていた。 

 

 で、なんとなく朔太郎の詩を読みたくなって、好きなものだけ、拾い読み。

 

 私が朔太郎らしいと思う詩(「地面の底の病気の顔」「内部に居る人が畸形な病人に見える理由」「酒精中毒者の死」「思想は一つの意匠であるか」「遺伝」など)の中でも、次の詩がなぜか好み。

 

くさった蛤

 

半身は砂のなかにうもれていて、

それで居てべろべろ舌を出して居る。

この軟体動物のあたまの上には、

砂利や潮みずが、ざら、ざら、ざら流れている、

ながれている、

ああ夢のようにしずかにもながれている。

 

ながれてゆく砂と砂との隙間から、

蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる、

この蛤は非常に憔悴(やつ)れているのである。

みればぐにゃぐにゃした内臓がくさりかかって居るらしい、

青ざめた海岸に坐っていて、

ちら、ちら、ちら、ちらとくさった息をするのですよ。

 

 書き写すとはっきりするのだが、漢字とひらがなが微妙に使い分けられていて、その表記の揺らぎで、まるで夢の中にいるような詩。

 なかなかグロテスクな表現が多いけれども。

 

 朔太郎は蕪村を好んでいて、その理由の一つがさらりとした艶っぽさだが(「与謝野蕪村」岩波文庫p47-48)、朔太郎のこちらの詩は濃厚。

 

愛憐

 

きっと可愛いかたい歯で、

草のみどりをかみしめる女よ、

女よ、

このうす青い草のいんきで、

まんべんなくお前の顔をいろどって、

おまえの情欲をたかぶらしめ、

しげる草むらでこっそりあそぼう、

みたまえ、

ここにはつりがね草がくびをふり、

あそこではりんどうの手がしなしなと動いている、

ああわたしはしっかりとお前の乳房を抱きしめる、

お前はお前で力いっぱいに私のからだを押えつける、

そうしてこの人気のない野原の中で、

わたしたちは蛇のようなあそびをしよう、

ああ私は私できりきりとお前を可愛がってやり、

おまえの美しい皮膚の上に、青い草の葉の汁をぬりつけてやる。

 

 哀憐でなく「愛憐」。

 ”かみしめる”は”噛み締める”に比べると、甘噛みをしていそうで色っぽい。

 この詩があるために、「月に吠える」の初版は発売禁止になったらしい(p56)。

 同じく検閲を受けた詩。

 

恋を恋する人

 

わたしはくちびるにべにをぬって、

あたらしい白樺の幹に接吻した、

よしんば私が美男であろうとも、

わたしの胸にはごむまりのような乳房がない、

わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにおい

 がしない (ブログ主注:ここでの改行が本の装丁のためかは、本来のものか不明)

わたしはしなびきった薄命男だ、

ああ、なんといういじらしい男だ、

きょうのかぐわしい初夏の野原で、

きらきらする木立の中で、

手には空色の手ぶくろをすっぽりとはめてみた、

腰にはこるせっとのようなものをはめてみた、

襟には襟おしろいのようなものをぬりつけた、

こうしてひっそりとしなをつくりながら、

わたしは娘たちのするように、

こころもちくびをかしげて、

新しい白樺の幹に接吻した、

くちびるにばらいろのべにをぬって、

まっしろの高い樹木にすがりついた。

 

 検閲を受けたのは、一見、倒錯的だからだろう。

 しかし、恋が”娘たち”の特権で、”しなびきった薄命男”で美男ではない”わたし”には無縁であることへの哀しみと憐み(まさに哀憐)があるように思う。

 それがとても鬱陶しく、近親憎悪的に嫌いになりそうで、でもやっぱり読みたくなる詩。

 朔太郎は「強い腕に抱かる」で描かれるような、母性が強くて逞しい女性が理想だった。

 そのような男に恋は無縁だったのだろう。

 

殺人事件

 

とおい空でぴすとるが鳴る。

またぴすとるが鳴る。

ああ私は探偵の玻璃の衣装をきて、

こいびとの窓からしのびこむ、

床は晶玉、

ゆびとゆびとのあいだから、

まっさおの血がながれている、

かなしい女の屍体のうえで、

つめたいきりぎりすが鳴いている。

 

しもつき上旬(はじめ)のある朝、

探偵は玻璃の衣装をきて、

街の十字港路(よつつじ)を曲がった。

十字港路に秋のふんすい。

はやひとり探偵はうれいをかんず。

 

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、

曲者はいっさんにすべってゆく。

 

 これを読むと私はルパン三世か、一本も見たことがない石原裕次郎が出ている日活映画の雰囲気を思い浮かべる。

 玻璃の衣装の探偵って、目立って仕事にならなそうで可笑しい。

 

 凄いと思った詩。

 

月光と海月

 

月光の中を泳ぎいで

むらがるくらげを捉えんとす

手はからだをはなれてのびゆき

しきりに遠きにさしのべらる

もぐさにまつわり

月光の水にひたりて

わが身は玻璃のたぐいとなりはてしか

つめたくして透きとおるもの流れてやまざるに

たましいは凍えんとし

ふかみにしずみ

溺るるごとくになりて祈りあぐ。

 

かしこにここにむらがり

さ青にふるえつつ

くらげは月光のなかを泳ぎいづ。

 

 くらげのことを、タイトルでしか「海月」と表記していない。

 このタイトルだけで、すでに詩になっている気がする。

 

 月―光と海ー月の対称と、光と海の対比。

 表記では光と海を月が挟んで対称になっているが、読みは<げっこうとくらげ>なので、音読と黙読で印象が違う。

 

 どこかで読んだフランス語詩が二重の快楽をもつという技法と同じ。

 フランス語の単語で、語尾に無音のs,eなど連なると、黙読では韻を踏んでいるかのようになるが、音読すると踏んでいない。

 

 この短い詩にどれだけの想いをこめたのだろう。

 

 

 

 

萩原朔太郎 永遠の詩7 小学館、東京、2010