自宅に近い古本屋を、ぶらぶらしていて、即、購入。
立ち読みしていて、ああ、勘弁、雅文体かと本棚に、戻しかけて、おや、もう一回、冒頭を読んで、おおと感嘆。
以下の文章が、冒頭部分。
木目(もくめ)美(うるわ)しき槻胴(きょうどう)、縁にわざと赤樫を用ひたる岩畳(がんじょう)作りの長火鉢に対(むか)ひて話し敵(がたき)もなく唯一人、少しは淋しさうに坐り居る三十前後の女、男のやうに立派な眉を何日(いつ)掃(はら)ひしか剃ったる痕の青々と(以下略)
用いられている言葉遣い、割と平易な七五調。
たとえば河竹黙阿弥のような、今風にいえば換喩や隠喩、大胆な省略で語調を整えず、普通の描写で七五調に、なっていることに驚天動地。
知識も教養もない私には、一々注が必要な、文章ではまったくない。
句点までは長い文章だが、調子がいいので読んでいて、息苦しさが微塵もない。
明治時代の文壇の、まだ文体が模索されている、生々しさが、とても新鮮。
冒頭では、まだわかりにくいが、p39だと
母は襦袢の袖を噛み声も得たてず泣き出(いだ)せば、十兵衛涙に浮くばかりの円(つぶら)の眼(まなこ)を剥き出だし、瞤(まじろ)ぎもせでぐいと睨(ね)めしが、おお出来(でか)した出来した、好く出来(でき)た、褒美を与(や)らう、ハッハハハと咽(むせ)び笑ひの声高く屋(や)の棟(むね)にまで響かせしが、そのまま頭(こうべ)を天に対(むか)はし、ああ、弟とは辛いなあ。
本文、台詞と内言に、表記上の区別はないが、すらすらっと理解ができる。
とりわけ十兵衛の笑い声、「ハッハハハ」と促音が入り、読み手が抱く音の快感。
今の散文にはない、このような文章表記、日本語文章の標準に、なり得たかもしれないと思うと、どんな世になっただろうかと、沈思黙考、しばし妄想。
さらに加えて内容も、自己愛とはいかなるものか、考えさせる重厚さ。
親分肌の源太郎、世事に疎いのっそり十兵衛。
この両人ともに我欲なく、「男が廃る」と人情と、思いやりとで動く源太(p47-48)。
善いも悪いも己一人、背負っていきたい価値観で、一歩も引かないのっそり十兵衛(p62)。
無欲の源太も振る舞いだけは、実はどこか恩着せがましい。
源太の思いを知りつつも、不相応だったと身を引きながら、威を借る狐どもを馬鹿にして(p63)、自分の意見を押し通し、相手を追いやる(p52)、のっそり十兵衛。
互いが互いを思い遣る、形を表面でとりながら、実は己の考えを、頑固に貫くこの二人。
舎弟や他人を巻き込んで、女房たちは現実に、起きる事件の尻ぬぐい。(p86-99)
さてこの隠れた自己愛の、衝突をどう解決するか。
源太は「諦め」(p65-66)、のっそり、「諦め」、加えて「何かを失う」は(p52、99-102)、まさにナルシシズムの裏表。
この文体では追いつかない、あれもこれもと考えが涌く、材料豊富なこの短編。
少し時間をかけながら、何度か味読をしていきたい。
幸田露伴:五重塔 岩波文庫、東京、1927