岩波文庫だと「アンドロマック」と同時掲載。
私は「アンドロマック」のほうが好みだが、「フェードル」も大変に面白かった。
粗筋は非常にシンプル。
しかし、フェードルの道ならぬ恋というか、激しい情念に圧倒される。
ロラン・バルトは本作を「形式主義的悲劇」と評したそうだが(解説p389)、そうだろうかと思う。
確かに、テゼー ⇔ フェードル → イポリット ⇔ アリシーという愛情の対称性があり、形式的に思えなくもない。
しかし、両側のテゼー+フェードル、イポリット+アリシーの描写は非常に淡泊。
それに比べて、フェードルがイポリットに思わず感情をあらわにしてしまう第二幕第四場、そしてフェードルが激烈な嫉妬心を吐露する第四幕第六場は、本を手離せなくなる。
本作全体にフェードルの情念が漂っていて、ポール・クローデルの「フェードル自身が空間を満たす一つの雰囲気である」(同上)という評のほうがぴったりくると思う。
この激しさ、ぜひフェードルを大竹しのぶさんに演じていただきたいと思って、試しにGoogleで検索したら、案の定というか、驚いたことにというか、すでになさっていた(2017年と21年)。
絶対にはまり役だと思う。
観に行けばよかった。再演されたらぜひ観に行きたい。
というか、台詞まわしを聞きに行きたい。
ちなみに「アンドロマック」でぴんとこなかった、バルトのいうラシーヌの「転倒した贖罪」(解説p391)という特徴、本作でようやくわかった。
フェードルは、ミノス王と太陽神ヘーリオスの娘パジファエの間に生まれた。
パジファエは神の娘でありながら淫奔で、クレタの雄牛と交わってミノタウロスを生んでしまう。
この”神の罪”をフェードルが贖うというのが、本作の背景なのである。(訳注9p301-302)
ラシーヌの原文の美しさは私は読めないのでわからないが、先に述べたフェードルの激しい独白を、渡辺守章訳は軽い七五調にしている。
他の台詞は普通に口語なので、わざわざそうしているのだと思う。
魅惑と若さに輝くばかり、すべての心を引き攫う、
神々のお姿か、いいえ、目の前におられるあなたのお姿。
あなたの面差、あなたのお目、あなたの声音(こわね)もそのままに、
気高い恥じらいのこの色が、そのお顔を染めていた、
我等がクレタの島までも、八重の潮路を押し渡る、
ミノスの娘の恋の願いには、如何にもふさわしいお方様。
歌舞伎ファンの私だと「知らざあ、言って聞かせやしょう。浜の真砂と五右衛門が、歌に残せし盗人の、種は尽きえねえ七里ガ浜。その白浪の夜働き・・・・」の河竹黙阿弥節を思い出してしまい、ちょっとやりすぎではと思ったりもするが、読むのと違って劇場で聞くと、絶対に素晴らしいだろうと思う。
渡辺守章訳:フェードル 岩波文庫、東京、1993
Racine J: Phedre, 1677