鴎外か野上弥生子、どちらかの随筆を読んでいたらラシーヌのことを話題にしていて、何となく読みたくなって古本で購入。
土日ともに仕事で、職場で待機しなくてはならないことがあって、その際に読了。
17世紀の戯曲だし、神がどうのこうのという話で退屈ではないかと思ったが、心理的駆け引きがあって大変に面白かった。
なるほど名作と納得。
とはいえ、仕事の合間だったこともあったのか、なんともいやーな気持ちに。
トロイア戦争後が舞台。
夫ヘクトールも父も殺されたトロイ側の生き残り、寡婦アンドロマックをめぐる悲劇。
ウクライナで戦闘が行われている今、何か生々しさを感じる。
10年もの大殺戮で夫も父も殺され、愛する夫の忘れ形見である息子を守ろうとするアンドロマック。
人質のアンドロマックを我がものにしたいアキレウスの息子、ピリュス(p87)。
ピリュスのことを愛しているが、自分を相手にしないピリュスに愛憎半ばのエルシオーヌ(p77、114、127)。
エルシオーヌのことを心底愛しているオレスト(p52、69、103)。
アンドロマックは、故郷で大殺戮をおかした仇の息子のものになるなど、当然、受け入れがたい。
そしてある決意をする(p98)。
一方、嫉妬に燃えるエルシオーヌはオレストを焚きつけて、散々オレストを振り回す(p58、105、126)。
この物語は「タウリスのイーピゲネイア」の後日談らしく、そのことを示唆する台詞がある(訳注p276 本文p51)。
そして「イーピゲネイア」の時と同じく、というか、オレストといえば「これ」なのだが、狂乱状態になる。
訳注を読むと、ロラン・バルトがラシーヌについてはかなり論じていたらしい。
たとえば「逆転した贖罪」。次に触れるビュートルと同じ意味あいらしいが、よく理解できない。
機会があればバルトのラシーヌ論を読んでみたい。
そしてミシェル・ビュートルは、ラシーヌの作品の特徴として「神々への憎悪」があると指摘しているらしい(訳注p279)。
この物語に神はほぼ不在。
むしろ、非常に人間臭い、どろっとした感情が描かれている。
故郷を焼け野原にされ、家族や多くの友人が殺され、夫の遺体が戦車で引きずり回された。
そのような屈辱を自分に与えた国の王妃に誰がなるだろう。
きつい表現になるが、アンドロマックは一種の凌辱を受けているといってよいのではないか。
エルシオーヌはピリュスへの強い愛情ゆえとはいえ、オレストが自分のことを愛していることを利用して彼をふりまわす。
この辺りも、なんとも不快な気持ちになる。
そしてオレストは発狂する。
もとのフランス語の文章は美しいのかもしれない。
しかし、この物語の筋は悲劇を通り越して凄惨だと思う。
時間があったら「フェードル」を読む予定。
渡辺守章訳:アンドロマック 岩波文庫、東京、1993
Racine J: ANDROMAQUE 1667