ドゥルーズを読んでいる間に疲れてしまい、テーマがかぶるのでこっちを先にと思ったら、ドゥルーズをうんうん言いながら読んでいた反動か、あっという間に読了。

 マゾッホというよりサドの話になるが。

 

 

<リベルタン>

 16世紀:異端の意味から、宗教から逸脱した者 → 17世紀:思弁より実践を優先する快楽主義者。不信心から放蕩へ。(p22)

 

 

<リベルタン文学の定義、出現の背景、特徴>

 キリスト教のつくりあげたスコラ的秩序からの逸脱、反宗教、非道徳を、性をまじえて描いた作品。(p23-25)

  

 18世紀は「啓蒙の世紀」だが同時に「快楽の世紀」だった。(p25)

 ex. ヴァトー、ブシェ、フラゴナールらの絵画。ブシェの絵の蔑称がrococoで、本来、装飾過多、軽薄、無内容、不道徳という意味(p27)

 

 イエズス会とジャンセニストの対立。(p64)

 教会権力への批判。(p203、211、217)

 自然に身体に備わっている快を抑えよというキリスト教の人為性への批判。(p209)

 理神論の出現:神の存在は認めるが奇蹟や啓示は認めない。(p66)

 

 国王権力批判。(p203、210、217)

 

 偽善を暴く(p41)、王制の脱価値化(6章、p203)、反キリスト教(p68、203) → 性描写が恰好の方法だった。

 

 

 欲望にまかせる=自分の「心の声だけを信じる」= 従来の道徳や宗教的教えを疑問に付す=自分で真実を見つけ出す(p56)

 「カルトゥジオ会修道院の門番であるドン・B***の物語」の一節:「その発見は私の精神に明かりlumiereをともしました」

 

 性的快は個人的快であり、性は各人の個別性を意識させることになった。(p210、216) 

 精神世界よりも物質的世界を優位と考える唯物論的発想の広がり ⇔ 今、現実にある自らの欲望に目を向ける。(p165、215)

 

 性は人間の動物性や暴力性を剥き出しにして、あるがままな現実を見せることである=現実批判・秩序破壊の力になった。(p213、217)

  

 「女哲学者テレーズ」の議論

 快と不快の組み合わせで欲望の度合いが決まり、欲望の度合いから身体を通じて情念の種類や力が生まれ、それらが意志や行動を決める。人は自分に相応しい快を得る。

 自然は一律で不変の法則に基づく。(p71-72)

 快を望み不快をさける「自愛心」が決定の原動力。(p73)

  → フロイトの議論と似ている。しかし、「テレーズ」の結論は「快で幸福になる」で、フロイトは「現実を受け入れて快を諦める」だった。

 宗教:恐れによって創られた。天災に無力な人間が頼りにするものだった。(p85)

    自分で考えられない多数の者たちの不安や希望のために必要だった。(同)

 

 行為を正当化する論理。(p36)

 

 

<サド>

 閨房boudoir:寝室の横にある小部屋の意味。本来、不機嫌になった婦人が、誰からも見られず仏頂面するbouderために下がる場所だった。(p132)

 

 ルソー(批判)、ヴォルテールの影響(嘲笑という方法は受け入れるが、宗教観は反対)、ビュフォン(引用)の影響がある。(p134-141)

 名前の引用はないがドルバックの唯物論と悪を放逐できない神への批判、モンテスキューとホッブスの影響も考えられるという。

 なおドルバックも宗教の起源を無知と恐怖としている。(p141-146)

 

 サドの新語「孤立主義isolisme」:自分の快と苦痛は自分だけのものであり、この世界も自分だけのものである。他者はものでしかない。この考えは自然が命じている。(p150-151)

 「残虐性は悪徳ではなく、子どもにもみられる最初の感情なのだ」

 

 

<そのほか>

 フーコーの起源概念への批判:原因を見出すことでなく、あるがままを再現すること。(p17-18)

 

 シャルチェの概念appropriationは我有化、摂取などと訳されるが、テクストを内面化すること。(p19 注3)

 

 リベルタン版画:窃視的な機能をもつが、それは「自分が覗かれる」不安を引き起こすだろう。(p172-173)

 

 physiqueの意味:本来「自然の」→17世紀に「物質的な」「現実のreel(精神的なmoralの対語)」「実際的なeffectif(形而上学的なmetaphysiqueの対語)」→18世紀から「身体的な」「性的な」が加わった。(p206-207)

 

 

<読後感想>

 王制や宗教制度の限界が露呈し、さらにスキャンダルが続いたことで、これらを揶揄するものとしてリベルタン文学が生まれたのは分かった。

 問題はなぜ過剰に性的な内容だったか、本書で論じられるのはこの一点である。

 本書で指摘されている通り、性的揶揄はおそらく大昔からあった。

 しかし、よりによって啓蒙の世紀、理性の世紀に、これらの文学が多く出版されたところに面白さがある。

 

 本書でサドが延々と理屈を並べていた理由がわかった。

 新しい道徳や法を「正当化」するため、政治・宗教・哲学を論じるのがリベルタン文学の特徴で(p82)、その究極に位置するのがサドということらしい。

 

 性について、本書でなるほどと思った点が2つ。

 自分の性、言い換えれば身体性に目を向けることが、自分の個別性を発見することになる。

 どうしても制御できない性的欲望を考えることが、宗教への盲目的服従に対する懐疑に向かう。

 

 この考え方は面白いのだが、別の時代なら、問答無用に、自分の体より神、欲望は抑えるべきもの、だっただろう。

 思うに、デカルトにより身体機械論が登場したことが大きかったのではないか。

 彼によって、精神性が身も蓋もなく解体してしまった。

 「啓蒙の世紀」では、精神性や理念の代わりに身体性が前景化した。

 そして身体性を遠慮することなく味わう「快楽の世紀」となったのかもしれない。

 ただ、性衝動によって啓蒙lumiere(ルミエール)を得るという議論には茶々をいれたくなる。

 性によってlumiereならぬ、私のものle/la mien/mienne(ルミャン、ラミエヌ)=個別性を得るという地口を思いついた。

 

 

 驚いたのが「女哲学者テレーズ」の議論。

 結論は逆だが、そこに至るまでの理路がフロイトと瓜二つ。

 

 翻訳があるので読んでみようと思う。

 

 

 

 

関谷一彦:リベルタン文学とフランス革命 リベルタン文学はフランス革命に影響を与えたか? 関西学院大学出版会、西宮、2019