前回の本と内容が似ているが、精神分析家ではなく、心理士、福祉、教育関係者の論考で編纂されている。

 

 

<中澤元子先生>

 悪い所をなくすことを心理士の役割と考えると、かえってうまくいかない。

 ”今日の”Aさんに会うとだけ意識し、悪い所はすぐにはなくならないが”とことん付き合う”ことを考える。(p5)

 

 日常の中に支えになる人やものがある患者もいる。

 そのような人やものを一緒に見つけるように関わる。(p6)

 

 どうしても人生の流れを変えられない時はある。

 そのような時、覚悟をもって共に時間を過ごすしかない。

 そうすると不思議と事態が改善することがあり、あたかも「人知を超えた何か」があるかのように感じることもある。(p6-7)

 

 心理士の役割の一つは「健康度の高い状態でそこにいる」こと。そのために自身の日常も大事にする。(p8)

 

 「もう限界」と思うときには余力はない。(p9)

 

 

<宇野敦子先生>

 誰のための相談なのか意識する。(p27)

 

 発語だけを言語発達ととらえると「言葉が少ない/遅い」と考えてしまう。

 非言語的な方法で伝えているのならば、”何かを伝えようとしている部分は発達している”と考えられる。(p27)

 

 「様子を見ましょう」だけでなく、どう様子をみるのかを家族や患者に伝える。(p30)

 

 

<尾崎香子先生>

 贈り物について:神田橋は受け取ると述べ、フロイトやウイニコットも受け取っていたらしい(p33)

 

 ウイニコットは神経症者からの贈り物は断り、精神病患者からの贈り物は受け取っていた。

 →「神経症では代償を支払わなくてはならなくなるが、精神病ではすでに加えられた損傷と関係がある」

 神経症では治療者患者関係に影響するが、精神病では言葉にならない内面の表出かもしれない。(p34)

 

 贈り物には、感謝だけでなく、自立の希求や、治療者患者の非対称性を対等にしようとする意図があると考えてみる。(p37)

 

 贈与とは本来、相互的循環の中で持続していくものである。(p38)

 

 

<ヴィゴツキー: 柴田義松ら訳:教育心理学講座 新読者社、2005>

 厳密な意味で、人を教育することはできない。

 園芸家が植物の成長を早めようとして直接、土から引っ張ったら、それは狂人沙汰だ。

 教育者も同じく、子供に直接、影響を及ぼすことは本質的ではない。

 環境を適切に変えることが重要。(p114-115)

 

 

<読後感想>

 これまで読んできた本と共通する文章がいくつもあった。

 「無理に治そうと力まない」「面接以外の日常が大事」「どうにもならないことはありえる。その際には投げ出さずに辛抱強く待つ」「理論より、個別具体的な理解、適当な環境提供」など。

 

 ウィニコットとヴィゴツキーの引用はなるほどと思った。

 

 患者さんからの贈り物、もちろん金品以外の手紙や手製のもの、自宅でとれた野菜などだが、それらを受け取るかどうかは大事な問題だ。

 関係性自体が治療対象といってもいい神経症では、贈与は関係性を複雑にしてしまい、治療に影響する。

 器質的な問題やほぼ不眠だけの方など治療関係がそれほど複雑ではない場合は、素直に受け取ってもいいかもしれない。

 ウィニコットは、精神病圏の場合は関係性から考えて、受け取って「も」いいのではなく、むしろ受け取った方「が」いいという。

 贈与が本来、「借りを返す」=対等になることが目指されているとすれば、私たちが精神病圏の患者さんたちに「与えてしまった」もの、おそらくそれはあまり「良いもの」ではないはずで、その「お返し」としての贈り物はきちんと受け取った方がいいということになのだろう。

 ひねった議論だが納得。

 

 またヴィゴツキーの教育論は、卓抜な比喩でこれも納得。

 ヴィゴツキーの本も何冊か積読になっているのだが、児童心理学、教育心理学の本だから・・・と敬遠せず、勉強するべきかもしれない。

 

 それから、私たちが使いがちな「様子をみましょう」は、どのくらい、何を「見る」のか、確かにまったくわからない。

 考えてみると、一種の逃げの言葉でもある。

 <何を><いつまで><どのように>様子をみるのかを意識する習慣をつけると、何を予測すべきかを考えないといけなくなるので、仕事の精密度があがるかもしれない。

  

 本当に、どんな領域からでも学びがある。

 

 

 

 

都筑学編:他者を支援する人はいかに成長するか 心理臨床、福祉・障害、教育・保育の現場で働く支援者の軌跡. ナカニシヤ出版、東京、2021