京都往復の時に読んだ本はこれで最後。

 詩の”読み方”が全然分かっていないので、以下、まったく見当違いな感想を書いていると思う。

 

 萩原朔太郎が推していたという左川ちか。

 確かに、作風がとても似ていると思う。

 柔らかな大和ことばではなく、硬い漢語や専門用語を使うことを好む。

 ただ朔太郎より自己憐憫の程度が低いように感じ、読み続けて徐々に気疲れすることがない。

 そもそも作家の存在を強く感じさせない。

 

 たとえば「断片」。

 

雲の軍帽をかぶつた青い士官の一隊がならんでゐる。

無限の穴より夜の首を切り落とす。 

空と樹木は重なり合つて争つてゐるやうに見える。

アンテナはその上を横ぎつて走る。

花びらは空間に浮いてゐるのだらうか?

正午、二頭の太陽は闘技場をかけのぼる。

まもなく赤くさびた夏の感情は私らの恋も断つだらう。

 

 こういう詩は、朔太郎は書いても、たとえば彼の親友の犀星は書かないと思う。

 私が気に入ったのが「朝のパン」。

 

朝、私は窓から逃走する幾人もの友等を見る。

 

緑色の虫の誘惑。果樹園では靴下をぬがされた女が殺される。朝は果樹園のうしろからシルクハットをかぶつてついて来る。緑色に印刷した新聞紙をかかへて。

 

つひに私も丘を降りなければならない。

街のカフエは美しい硝子の球体で麦色の液の中に男等の一群が溺死してゐる。

彼等の衣服が液の中にひろがる。

 

モノクルのマダムは最後の麺麭を引きむしつて投げつける。

 

 最後の「モノクルのマダム」が「パンをむしって投げつける」のを映像として思い浮かべると、なんだか魅力的。

 左川の詩に”緑”が良く出てくるのだが、これは北海道出身だった彼女の原風景と関係しているらしく(解説p386)、またヴァージニア・ウルフの影響もあるという(解説p399)

 

 朔太郎はこういうのが好みだろうなあという作品が「青い球体」。

 

鉄槌をもつて黒い男が二人ゐる。

向の端とこちらで乱暴にも戸を破る。

朝はそこにゐる、さうすれば彼らの街が並べられる

ペンキ屋はすべてのものに金を塗る。

鎧戸と壁に。

林檎園は金いろのりんごが充ちてゐる。

その中を彼女のブロンドがゆれる。

庭の隅で向日葵がまはつてゐる、まはりながら、まはりながら、部屋の中までころげこみ

大きな球になつて輝く。

 

太陽はかかえ切れぬ程の温かいパンで、私らはそれ等の家と共に地平線に乗つて世界一週(ママ)をこころみる。

 

 宇宙空間から一気に視点が地上にクローズアップし、その後、再び宇宙空間に戻る。 

 

 また、散文の「夜の散歩」は、ハードボイルドな作風でわくわくする。

 

 

 正直なことを書くと、後半の翻訳集、アーネスト・ジョーンズ、ハクスレー、ウルフ、ジョイスの論文や詩、小説を読みたくて購入したのだが、彼女の詩がこんなに素晴らしいとは思わなかった。

 朔太郎好きにはお勧めかもしれない。

 朔太郎の魅力である表現と情緒のアンバランスさはないが、かわりに前進しようとする力強さにしびれる。

 この理由が若書きだったからなのか、彼女の個性なのかは分からない。

 というのも左川ちか、わずか24歳で亡くなっているのである。

 全盛期には、どのような作風になったのだろうか。

 

 

 ところで解説に、「女性詩人に期待される女性性の自認をテーマにしなかった」ので、シュルレアリスムが流行していた同時代にはもてはやされたが、やがて忘れられてしまったと書かれていた(p406)

 

 なるほどと思う。

 

 

  

 

 

島田龍編「左川ちか全集」 書肆侃々房、福岡、2022