京都は人出が戻っているように思ったが、タクシーの運転手さんによると「普段の3割」だそうだ。

 出発前から読んでいたので、車中で読了。

 

 <田辺元の思想>

 

 物事を言葉で理解しようとするギリシャ。

 心によると考えたユダヤ、ヘブライ。

 力と考えた中世。

 人間の行為と考えている現代。(p67「哲学入門」に記載があるらしい)

 

 歴史は直線的ではない。過去から押す力と未来から決定する力の相反する二つの力が結び合い、交互触媒する円環(p75-76)

 因果も直線ではない(p78)。自分で自分を決定する自発性がある。(p79)

 

 過去から未来へ円環は円環を包んで重なる。また、一方からみれば直線になる。(p105)

 

 

 現在は、止まっている訳ではなく、下りつつ上がり、下がっても上がってもいない点。(p112)

 瞬間Augenblickは過去でも未来でもない、時の間Zweischen-den-Zeiten。現在は、断絶し偶然を常に含む(p116-117)

 

 歴史において「作る」と「なる」は不離相即(p95)

 

 ヨーロッパは「絶対有」から「定有」、そして「無」

 西田と田辺は「絶対無」から考えた(p151 → おそらく創造説と仏教観の違い)

 悪の問題はシェリング由来らしいが、この辺りは私は理解できなかった(p151-157)

 

 種と個と人類は相対的。

  X家のYさんならYさんが個で、X家が種。日本を種にするとX家は個になる。

 私たちは種から生まれたので、種が先行する。種は私を規定するが、人類は拘束せず開かれている(p174)

 

 個→種→人類という一方向ではない。どれかが2つを媒介する(p179)

 国家の寄せ集めが人類ではない。国家と人類はあり方が違う(p180)

 

 種の方向性は伝統や習慣など過去。

 個人の方向性は計画をたてて働くので未来。

 2つを統一するのが人類で現在。しかし人類は理念にすぎない。

 

 個人が自分の行為の目的を達することができ、種の規律や統制がそのまま個人の自由な行為に媒介され統一されたとき、種の閉鎖性は人類的開放性に高められる。それが国家。

 そのような個人は他の種の個人と閉鎖社会の境を超えて協調しあえる(p184-185)

 

 民族は血の純潔、自然科学的・人種的なものでなく運命共同体(p205)

 

 政治だけ主張して文化を無視すれば国家は国家性を失い、単なる種になる(p223)

 文化は政治と結びつかなければ歴史の中に具体性をもちえない。文化史と政治史で歴史をつくる(p229)

  

 種と種との力関係の中で個人は無力。しかし、歴史を見れば、少数の指導者によって動かされることがある(p245)

 指導者は専制君主とは違う(p246)

 

 意志をもって種を高める個人は種の中で自己を否定することで個人に対する種も否定し、人類の立場に自己を復活する。それとともに種も人類の立場に高められる(p252)

 

 歴史は、どの時代も完結的にまとまり、一つの形態が成熟すれば次の形態の統一に場所を譲らねばならない(p258-259)

 しかし単なる発展ではなく、連続性と重なりがある一方で、非連続性がある。

 

 新しい時代の文化の統一原理は希臘の知性・科学(p282)

 

 人間の色々な力が統一・調和的な場合に善で、統一が破れるとき悪(p284)

 種対立の必然を認め、悪を通して善を実現する(p286)

 

 

 <読後印象>

 佐藤さんの読解は若干バイアスがかかっているように思われるが、私が田辺の肩を持ち過ぎなのかもしれない。

 たとえば佐藤さんは「少数の指導者」をドイツ語のFuhrerのことだとおっしゃりナチスに結びつけるのだが、ギリシャ哲学を読み込んでいた田辺の念頭にあったのはプラトンの「哲人政治」ではないだろうか。

 また田辺がハイデガーの影響を受けていたことを考えると、死に関するp290-296で読解されている結論「自ら進んで死において生きる」「死における生を遂行する」に対する佐藤さんの解釈はやや悪意があるように思える。

 佐藤さんは「自分の意志で死ね、それが永遠に生きる道だ」と解釈し、無茶な論理と批判なさっている。しかしハイデガーを下敷きにしている田辺がここで言いたかったことは、私はいつかは死ぬのだということを意識した時、人は真剣に生きることを考え始めるという思想を主張しているのだと思う。

 

 とはいえ、最後の文言はまったく言い訳ができない。

 「自ら進んで自由に死ぬことによって死を超越することの外に、死を超える道は考えられない」(p298)

 

 自己犠牲について慎重に議論を進め(p274のあたり)、「自ら死を選ぶ決断は文化主義の立場からは認められない」などの文言があるのに、田辺がこの結論に至ったのは残念だ。

 

 死と生、どちらに力点を置くか、ぎりぎりのバランスで結論が大きく変わってしまう。

 ハイデガーも田辺も、本来は、いつか死ぬという事実を意識することで、生を充実させよと主張していたはずだ。

 しかし、ハイデガーは死が各人の固有性であると死の価値を強調する方に向かってしまい、田辺は選択的死でもってしか、受動的な死に対抗できないという方向に議論を進めてしまった。

 

 もちろん時代的制約がある。

 それにしても、死にロマン派的な過剰な意味付けをし、学生たちを戦場に送ってしまったのは確かなのだろう。

 

 とはいえ、戦後、懺悔を発表した田辺と、反省の弁を一切述べなかったハイデガーとの違いは指摘してほしかった。

 

 田辺の時間論は独創的で、仕事に応用できる気がする。

 確かに現在は多くの出来事からなり、複数の過去から因果で結ばれる。

 なので、ある方向から見れば直線だが、全体として円環というのは確かにそうかもしれない。

 

 田辺元は読みたいのだが、ある本を購入して読もうとしたところ、一言も理解できず諦めてしまった。

 再チャレンジしたい。

 

  

 

 

佐藤優「学生を戦地へ送るには 田辺元『悪魔の京大講義』を読む」 新潮社、東京、2017

元論文 田辺元「歴史的現実」 岩波書店、東京、1940