読み終わって感動した後、解説を読んで、あっと思った作品。
夫に先立たれた後、娘が結婚することになった主人公。
不愛想だが仕事の技量は確かな義理の息子と娘夫婦と、三人での生活が始まる(p100、116-120、179)。
一方、亡くなった夫は、フルートを趣味にし、おしゃべりで楽しい男だった(p104-105)。
亡き夫と義理の息子を比べてしまう主人公。
成城学園らしき邸宅に住む知人が海外駐在となり、留守の間に管理を兼ねて邸宅に住まないかと誘われる(p135-136)。
いい話だと勧める娘。
本当は引き留めてもらいたかったのに(p138)。
息子と楽しく生活しようと考えなおした矢先、彼に恋人ができたことを知る(p139)。
気配りができ、台所仕事もさりげなく手伝える恋人を主人公は気に入る(p150、p162-163)。
はやく三人で住みたいとまで願う(p171-172)。
ところが息子は別の場所に住むという。
恋人は簿記を学び働きたいと考えている。そこは邸宅から通えない。
「おれは、コンパクトをのぞいて鼻の上を叩くことのほか知らぬ女の子は嫌いなんだ」と恋人の望みを優先する息子(p181)
離れていく子供達。
主人公は・・・・という話。
読み終わった直後は、子離れを経験する老婦人の哀しみとしんみりする(それにしてはラストがアレだけど)。
もう一度読み直すと、戦前の貧しい家と新興住宅地、宅地奥の松林や麦畑とロマンス・カーの対比があり、戦前から戦後高度成長期の価値観の変化に戸惑う女性という話でもあるなと思い直す(p185 本作は1964年に発表)。
「畜生腹」の意味を娘が知らないシーンは(p115)、世代間ギャップを描いているようにも読めるし。
で、加賀乙彦先生の解説。
子育てを生き甲斐にしていた女性が子供たちに裏切られる物語・・・うん、そうだ・・・・「これを、家庭という狭い生活の場しか見ることのできない女性の悲劇と見る」(p192)・・・・あ!!
考えてみると、この作品、日本の典型的な夫婦像が描かれている。
妻とコミュニケーションをとろうとしない夫(義理の息子)。
しかし、家庭は大事にしている(子供のために乳母車や勉強部屋、風呂場をDIYで作る)。
そんな夫を当然のように受け入れて子育てに専念する妻(娘)。
長女夫婦は「かつての(今も・・か)日本の夫婦」。
社会に出る妻を尊重する夫(息子)。
社会に出たいと願い、母親という存在を重たく感じる妻(息子の恋人)。
長男夫婦は「高度成長期以後の日本の夫婦(理想化されすぎだけど)」。
主人公の夫は愉しい男だったが肺をやられており(p104)、当時の日本では「役に立たない」男だったといえる。
だからこそ、彼は妻との関係を優先することができ、彼女は当時としては幸福な家庭生活を送ることができた。
そして、彼女の人生の目的は「家族と共に生きる」こと自体になる。
かつて(今も?)女性は「家族と生きる」ことに縛られてきた。
この作品は人物造形や物語の巧みさから、主人公が「そのように生きざるを得なかった」という制縛を感じさせないように描かれている。
むしろ主人公が「そのように生きることを望んだ」ように読める(というか、そうなのかもしれない)。
だから全く説教臭さが無く、一層、悲劇的に。
「大石良雄」でも感じたのだが、野上は「女性特有の」「繊細さ」(解説p191、192)だけの作家でないと思う。
むしろかっちりと理詰めな印象。
ということで、田邊元との書簡集、注文しました。
楽しみ。
野上弥生子「大石良雄・笛」
岩波文庫
ISBN 4-00-310498-6