野上弥生子は、若い頃に中勘助に振られたのだという。ちょっと調べてみたい気もする。
若いころの勘助。確かに美男子。
晩年も羨ましいほどかっこいい。
野上弥生子。
私的にはaikoさんに似ているような気が。
さて、芥川龍之介の「或る日の大石内蔵助」と比較されるという本作(解説p188)。
読後感が全く違う。
脱英雄化自体が(たぶん)画期的だった芥川とは異なり、登場人物やその関係性が立体的かつ現代的。
速やかな仇討ちを望む急進派と、お家存続のために慎重な行動を主張する自重派。
叔父は自重派だが、うやむやになることを望んでいる節がある(p20-21、71-72)。
それに引きずられている自分を意識しつつ、叔父とは絶対に違うと考える内蔵助(p25-26、59-62)。
しかし、内蔵助自身は本来、花鳥風月を愛でる生活を望んでいるらしいことが、はっきりとではないけれども描かれる(p14-15、47,50)。
そもそも彼は自分がどうしたいか「わからない」(p23、25-26)。
多くの部下は曖昧に動き、内蔵助と、あるいはお互いに腹を探りあう。
内蔵助は自重派(にみえる)重鎮を頼りにしている。
しかし、その重鎮もまた、”急進派ではない”だけで、実は仇討ちを実行したいと考えていのであり、動かない可能性が高い内蔵助を仲間内で「池久」と綽名で呼び、内蔵助をうまく動かす方針を冷静に計算する(p35-36,40-43)。
1人で決定しなければならない上に立つ者は、その責任から逃れている部下たちから、その言動を内々であれこれ言われたり、頼りないとどこか小馬鹿にされたりするのは、組織内にいれば必ず見聞することだ。
しかし、迷うことなく大鉈を振るって”即決する”のは、ある種の男らしさに見えるかもしれないが、たいていは蛮勇に過ぎないと思う。
もう一つ、よくある忠臣蔵ものと違うのは、妻のりく。
武家としての体面を気にする女性として描かれる。
現在なら「あら、おかえり。お風呂?あ、そういえば、Xさんの旦那さん、今度、部長さんだって。お若いのにね。えーと、あなたは・・・・係長?係長補佐だっけ?どっち?あ、補佐。あーらごめんなさーい」なタイプ(古いドラマを見すぎ)。
仇討ちの方向に動く様子のない内蔵助に、冷たく、ちくちく嫌味を言う。
苛立つ内蔵助(p24-25,45-47,62-67)。
私が女性の(母親の)怖さを感じたのが、息子のくだり。
息子に死んでほしくないため、仇討ちに参加させまいとする内蔵助。
しかし、息子は健気は心意気を見せる。
隣で満足そうなりく。
でも、子供って、母親の欲望に従うことを自身の意図と混同しがちだと思う。
涙を堪える内蔵助。
泣けます、そして怖い(p80-90)。
最終的に内蔵助は何で動いたか(p74-76)。
人が物事を決める時というのは、案外、こういうものかもしれない。
一種の「日本の男論」として読めるのではないか。
というか、身につまされました・・・・
野上弥生子「大石良雄・笛」
岩波文庫
460円+税(古本で300円)
ISBN 4-00-310498-6