先日、日仏会館主催でWEB配信された、ボードレールのシンポジウムを聴講するために、古本屋で購入。
出張中に読みました。
なんだか私には読みにくかった・・・・
気に入ったのは断トツで「寡婦」。
あと「貧者の眼」「悲壮なる死」。
「小刀嬢」もブルトンの「ナジャ」っぽくて好きです。
斜に構えた詩が多いかと思ったらそうでもなく、若干、意外。
ああ、如何にも・・・は「けしからぬ硝子屋」や「贋せ金」でしょうか。
でも「贋せ金」の
最も済度しがたい罪は、愚昧よりして為される悪である(p107)
は、私の中2病な部分が刺激されました。
さて、もう一つ印象に残っていた「紐」。
ボードレール・シンポジウムで、この作品そのものをテーマにした発表がありました(2日目 吉田典子先生のご講演)。
やっぱり読んでおいてよかった!
この詩、マネに捧げられているのですが、なんとマネが体験した実話だった(!)
当時、有名な話だったそうです(それはそうだ)。
詩の描写から、少年はおそらくこの子だろうと特定できると。
この絵のモデルらしいとのことです。
マネの他の絵にもでてきます。
びっくりです。
あんなことが現実にあったのかあと。
また「紐」は2つヴァージョンがあったそうで、最後の文章が違っていました。
ほかにもボードレールが純粋芸術と哲学的芸術という対を考えていたとか、「けしからぬ硝子屋」はサドを意識して書かれていたらしいとか、「悪の華」第二版の表紙をボードレールは別の絵にしたかったなど、面白い発表が多くて学びになりました。
これを使いたかったらしい。確かにカッコいい。
"baudelaire fleure du mal deuxieme edition"で検索しても、
ホンモノらしき表紙を見つけられませんでした。
本に戻ると、私的に「お」と思ったのは、バイヤルジェの名前が出てくること(「貧民を撲殺しよう」p175)、あとボードレールが「民衆public」(p28「犬と香水壜」)と「大衆multitude」(p42「群衆」)をわけていること。
分けているからには何か意味があるのではないかと思ってしまうのが、私の悪いところです。
普通に考えれば、multitudeは孤独solitudeとの対比で、たぶん韻律で選ばれたのでしょうけど、それではつまらない。
調べてみるとmultitudeの語源は、ただの「多multus」の名詞形。
だけどpublicは「人々publicus」が由来。
人びとが集まり、何かを考えたり、主張したりしたところで、彼らは犬程度にしか物事を理解しないし、物の価値もわからない(p28 私でなくてボードレールの意見です)。
でも、何かを主張したり考えることのない塊としての多数の者は、私の私らしさを際立たせる重要なものという、すごいナルシシスティックな発想の違いを強調したいのかなと思ったりしますが・・・やっぱり、いつもの妄想です。
かなり薄い本ですが、読み終わるのに、結構、時間がかかりました。
なんだか集中できなくて、並行して読んでいたゾラの短編集と「鴎外追想」の方に手が伸びてしまって。
もう読まないかな・・・・
ボードレール「巴里の憂鬱」 三好達治訳
新潮文庫
362円+税(古本で100円)
ISBN 978-4-10-217401-2
Baudelaire CP: Le Spleen de Paris. 1869