久しぶりの出張で本を3冊読了。
紀貫之が、平仮名で文章を綴った理由を何かで知り、読みたい!と古書で入手。
講談社学術文庫版がほしかったけど、南米大河WEBで高かったので我慢。
土佐日記、出発後に気候関係でずーっと足止めをくらい、通常の倍の期間で京にたどり着くまでの”苦闘”の記録なのですね。
当時の人が暇をどうやって紛らわせていたかがわかりました(まま、想像通り和歌か漢詩を作っていたのですが)。
知らなかったこと。
漢文体日記は備忘録だった(p39)。
だから、
五日。風波やまねば、なほ同じ所にあり。人々、絶えずとぶらひに(訪ねに)来。
六日。昨日のごとし。
みたいな感じの出来事の羅列が普通だそうで、ちなみに鴎外の日記もこんな。
出来事を一行書いて終わり
以前、鴎外の小説を報告書文学と書きましたが、高い漢文の素養があったことを考えれば、あながち的外れではなさそう。
(漱石は違うのはなぜという突っ込みはなしで。文学者だったことと関係しているのでしょうけど)
精神的女装で書いたこの日記、たまに「をとこ」の地が出てしまう(p39、161)。
さらに下ネタや下品な言葉も(p76、131)。
足止めで風呂に入れない女性たちが海で水浴びをした。
海神など怖くないものねえなどと、互いに言いながら、
ほやのつまのいずし、すしあはびをぞ、心にもあらぬ膝にあげて見せける(p76)。
着物をまくりあげて、ホヤがつまになる、貽貝(いがい)(の寿司)、アワビ(の寿司)を海神さまに見せつけました。
・・・・・
ノーコメント。
頓智が利いているところも。
鏡に神の心をこそは見つれ。楫取(かじとり 舵取)の心は、神の御心なり(p148)。
文章表現と文章の内容が一致しないので、なじゃこりゃと思ったのですが、解説でわかりました(あくまで一説 p150)。
「かがみ」から「か」という「字(じ)」を「とる」、つまり「かじとり」で「かみ」。
・・・・・
これ、下の子供の好きな松丸亮吾くんの謎解きなんとかでしょうか。
疑問だったのが、古文の文章って当時の口語とどれくらい一致していたかです。
舵取りが、
御船より、おほせ給ぶなり 朝北の、出で来ぬさきに 綱手はや引け(p139)
と言ったのがそのまま三十一文字になっていると感心する逸話がでてきます。
当時の人って、そういう話し方だったのか?
他に万葉集の読解が難しいのは当て字だからだけではないこと(p157-158)、古今的歌風という作風があること(p176-177)など、学びになりました。
さて、紀貫之がなぜ平仮名で日記を書いたか。
本書は12月21日から始まり2月16日に終わりますが、子を亡くした母(貫之の妻)が歌をよむ箇所が6つあり(同乗した、よその子どもが和歌をよむ箇所も7つあり、この対比も切ない)、特に後半で増えます。
現代語訳が不要なくらい、ストレート。
たとえば、
寄する波 うちも寄せなむ 我が恋ふる 人忘れ貝 おりて拾はむ(p133)
最後の京の到着シーン。
(略)聞きしよりもまして、いふかひなくぞ、こぼれ破れたる。
思ったよりも家が荒廃している。
ほとりに松もありき(略)かたへはなくなりにけり。今生ひたるぞまじれる。
庭の松も半分なくなっている。しかし、新しい松が生えてきている。それを見て、一層悲しくなる貫之夫婦。
生まれしも かへらぬものを 我が宿に 小松のあるを 見るが悲しき
これも現代語訳不要。
京で生まれ土佐で死去した娘への哀悼が、この日記の根底にずっと流れている。
私が読んだのは、次の仮説です。
漢文では心情をうたえないが、平仮名ではそれができる。
紀貫之は娘を亡くした悲しみをなんとか表現したかった。
だから女性の文体である平仮名を使った。
奇をてらったのではない。
内的な必然性があった。
考えや想いには、それに見合った文体があるのですね。
紀貫之「土佐日記」 西山英人編
590円+税(古書で200円)
角川ソフィア文庫
ISBN 978-4-04-357420-9