スーさんの新作(といっても昨年)。 

 

 スーさんのエッセイらしく、また発見が。 

 

 

 

 

 2つのエッセイ:「私はちょっと怒っているんです」「頑張れたっていいじゃない」(p152-159)。

 

 「頑張った努力が報われる」と言うと「報われない人は頑張ってないということですか?」「頑張れない人を責めているのですか?」と反論される現状に、スーさんは怒っていらっしゃる(p152-153、156-157)。

 頑張ることがあたかも卑しいことのようだと(p156)。

 

 これは「頑張ったら報われる」を「すべては個人の資質」にすり替えていること、その背景に、極端な自己責任論の広がりがあるとスーさんは指摘なさっています(p152-153)。

 スーさん的には「言葉の泥棒が目に余る」(p152)。

 いいですね、この表現。

 

 スーさんとしては「努力しやすい環境としにくい環境の不均衡」と「努力が報われる」が混じって論じられているのではないかと(p153)。

 なるほど。

 

 

 ただ、最初にこのエッセイを拝読したとき、え?と思って、3回くらい読み直しました(読解力の無さ・・・)。

 で、私の読み方が雑で「頑張ったら<成果>が出る」「<成果>が出ない人は頑張ってない」と言葉泥棒していたことに気付きました。

 

 

 「頑張れば<成果>が出る」

 今話題のメリトクラシー。

 

 一見、平等な発想だけど、教育機会に恵まれなかったり、生まれた時から豊富な文化資本に囲まれて育たなかった人は成果を出しにくいという隠れた不均衡がある。

 さらに成果をだした者はそうでない人々に「成果を出せないのは頑張ってないからだ」と侮蔑意識を抱く。

 一方、成果を出せなかった者は「頑張らなかった自分が悪いんだ」と自責感や、「頑張れなかった自分に欠陥があるんだ」と劣等感を抱くことになる。

 

 家柄や階級が固定していた時代は、成果を出せなくても社会制度のためと自分を納得させることができ、要らぬ劣等感を抱かずに済んだ。

 逆に家柄のある人は成果が出せなくても、家柄によって要らぬ劣等感を抱かずに済んだ。

 

 

 で、最初、スーさんがメリトクラシーを肯定しろとおっしゃっているのかと思ってしまいました。  

 

 違いますね。

 <成果>とお書きになっていない。「報われる」とお書きになっている。

 <成果>は客観的指標ですが「報われる」は主観です。

 「納得」「達成感」「満足感」と言い換えてもいい。

 

 「頑張れば(たとえ成果がでなくても)自分のやったことに満足感を抱くことができる」と言い換えれば、それはそうだ、です。

 すると、反論が的外れなのがわかります。

 「自分のやったことに満足感を抱けないのは、頑張ってないからとでもいうのですか!」

 それはそうでしょうよ、です。

 

 今は「頑張らなくてもいいじゃなーい」が主流かもしれませんが、「頑張ってもいいじゃなーい」も大事。

 

 

 

 「昔の私に教えてあげたい、夢の叶え方」(p192-195)

 スーさんが十年前には知らなかった夢の叶え方がある。

 「得意なことを見つけて頭角を現せば」「勝手に名が世に出て」「夢が叶う」(p194-195)。

 羨ましい。 

 

 次の言葉は大事なことだと思います。

 「自分がなにが得意なのか」は「他者が勝手に決める」(p195)。

 

 

 私も、最近、やっと気がつきました。

 私が好きなこと、やりたいこと、得意だと思っていることと、他人からみた私に合っていること、適性があると思われていることはズレている。

 そしてしばしば他者、自分のことをよく知っている同僚や上司、家族や友達の判断の方が正しい(ことが多い)。

 

 「これは私のやりたいことでない、これは私にあってない」と焦って居場所を探し続けるのではなく、他人様が「あのー、こちらの方があなた様には適当ではないかと・・」と差し出してくださったものが、私にあった居場所なのかもしれない。

 

 もっと早く気がつけばなあ。

 このこと知っていると生きるのがだいぶ楽になるし。

 うちの子供達にずーっと吹き込んでいます。

 

 

 

 

 空回りし続ける他者承認欲求。

 「ちょうどいい」にいつ出会えるか。

 

 昨日、通勤中に車中で出した結論。

 一生、出会えない。

 

 やっぱり「頑張る」しかないな。

 

 

 

 

 

ジェーン・スー「ひとまず上出来」

1450円+税

文藝春秋

ISBN 978-74-16-391482-4