続きです。

 パリ第八大学に女性学センターを創ったバリバリ現役の頃のシクス―先生

 

 シクス―先生は「フェミニストと思われるのが怖い」という。

 それは「女の方が優れているとは思わない」から。

 女性は「権力(原文はpouvoirだと思うので「力」にします)を持っていない」。

 なぜなら「彼女たちが持たないように彼らがいるから」。

 ここまではよくある議論。

 男が力を独占している。

 しかし議論は思わぬ方向へ。

 

 「彼女たちがそれを持った時、彼女たちの男性的欲望の中に一瞬の気晴らし、愛の渇望という逸脱がおき、力が失われる」(p69-70)。

 

 なんじゃこりゃ。

 以下妄想。

 

 欲望は「ない」からこそ動く。それが満足されると動きを止める。

 普通の言葉にすれば「無関心になる」。

 だから力を求めていた「彼女ら」は力を得ると、「男性的力」(p64)を求める「男性的欲望」は満足して、それ以上何もしないという逆説的事態が生じる。

 せっかくの力を使って何かしようとしない。

 これは欲望の性質ゆえのこと。

 

 さらに元々ある女性サイドの愛が動き始め、渇望(たぶんdemande)が生じる、自分を愛せよという方向に逸れてしまう。

 それは、男のもつ女性観に嵌ることでもある。

 愛を要請する受け身な存在になり、男の求める女性らしさに陥る。

 

 力を得るのでなく、力を欲し”続ける”ことが重要だといいたいのでしょう。

 力を欲し続けながら主体的に愛し続けることができるから。

 

 

 ついでシクス―先生は母親に触れます。

 「女性は母親であるだけ一層母親である」(p65)

 明らかに既存の(大陸系以外の)フェミニズムへの挑発。

 「私たちは常に<息子の母>であることを命じられる」

 「至高の友情に違いない愛情を見出す」(p66)

 

 女性にあるのは愛。

 それも「至高の友情」つまりセクシャルな部分を削ぎ落とした愛。

 だから「息子への愛」という言葉になる(でなければ近親姦になってしまう)。

 

 力をもつ(と息子のように愛を欲する)男、愛する(と力を欲する)女という二分と、それを打ち消す運動の両方が描かれている。

 

 

 

 次の論文、「何時ですか?あるいは人の通らない扉」

 死の不可能性(人が通らない扉)が論じられるけど散々どこかで読んだ議論なので略(p116-124)。

 

 「愛は手を与えること」(p125)。

 「愛の到来、それは内部の生成です」(p132)。

 パウル・ツェランの詩を引用し「二人の異邦人」が愛の条件(p130-131)。

 

 愛はつながりそのものであり内部を生成する。

 内部はシクス―にとって女性のものでした。

 また愛は全く異質な人物間で成立する。

 

 さらに母の名(エスター)で以下の文章を記します。

 Wo Esther war soll ich gehen(p106)

 

 訳注がないのですがフロイトのパクリです。

 Wo es war ich werden.

 それ(エス)があったところに私を生成せよ。

 同じように、エスターがいたところに私はおもむく。

 つまり<母が私を生む>

 

 さらに母の議論。

 「私の残りの部分は母親である」(p125)。

 「<私はあなたの母親よ>と言わない」

 「空気や空のように無関心に私たちを受け入れる存在」(p127)。

 「呼吸するように愛する」、理解するのではない存在(p139-140)。

 

 私は母を自身の一部にし、母は言語的理性を超えて私を受け入れる。

 

 前論文でシクス―が「女性は母親」と書いていたのは、やはり文字通りの意味ではない。

 愛そのものといっていい母が私の一部になる。

 そして愛は私に内部を生成する。

 内部は女性のものだった。

 つまり、女性は母親(=愛=内部生成)である。

 

 そして死より誕生(p135、137、142 これは人の通る扉)が強調される。

 母が話題になっていることとデリダの「蟻」への呼応。

 デリダは、無知non-savoirは非科学ne-scienceから誕生naissanceに向かうと述べていました。

 

 性的差異が論じられない(無知)。

 しかし代わりに誕生があるのだと。

 

 

 

 最後、「狼への愛」。

 「愛は垂直的」(p26)

 この文章の前に、ある小説の父子、母子関係が書かれる。

 親ー子という縦関係に愛があるということでしょうか。

 

 「真の愛は触れないこと。同時にほとんど触れること」(p30-31)

 セクシャルでないものとして愛が主張されている。

 

 童話<赤頭巾ちゃん>でおばあちゃん狼が出てきます。

 狼は男性名詞、Le loupです。

 しかし、おばあちゃんなのだから女性定冠詞をつけるべきとされる。

 すなわち、le-la-loup(p28)。

 

 狼に「偉大な愛があるとき」羊を食べようとしない(p28-29)。

 食べないこと、すなわち命を「贈与した」。これも「愛」(p39)。

 そして食べなかった狼は「己を与えられる」(p39)。 

 

 ちょっとここでデリダの真似をします。

 食べるmanger(マンジェ)はmenager(メナジェ eにアクサン)。

 Menagerはいたわる、大事にするという意味。

 ばあちゃん狼は孫を食べたい=大事にしたい。

 しかし、自制する。そこにも愛があると考えるのも面白くないですか?

 

 

 

 

 愛は男女の次元にはない。

 セクシャリティやジェンダーと別の次元にある。

 しかし異質な二人の間で成立する。
 そして、贈り与えること、つながることを意味する。

 さらに愛によって相手に何かを「与え」、同時に「私」自身が「与えられる」。

 母と父の愛で私の生が与えられたように。

 

 男女の差異など(言葉で)論じることはできない。

 それはある。

 すなわち力と書く、愛と内部性。

 

 しかしない。

 力や書くことより、愛と内部性の方が人には必要だから。

 

 とはいえ、単純に女性を称揚しているわけではない。

 力と書くことを奪われていることはハンデなのは確かだから。

 

 一つだけ性差で言えること。

 私、そしてあなたを析出する。 

 

 

 

 

 ・・・・とこんな風にまとめるべき本ではないのかもしれません。

 おそらくかなり誤読しています。

 でも、読みながら妄想するのは楽しかった!!(だからだらだら書いている)。

 

 他の皆さんの読みを知りたくなる暗号のような本でした。 

 でもこれを読み解くことが仕事なのはしんどいなあ・・・・

 

 

 

 シクス―のle-la-loup(音だとル・ラ・ルー)は気に入りました。

 

 ルー。

 ル(男性定冠詞)ではない。ラ(女性定冠詞)でもない。

 

 なんでしょうか。

 

 

 

 

 

エレーヌ・シクス―「狼の愛」(付:ジャック・デリダ「蟻」)  松本伊瑳子・訳

2530円(?古書)

紀伊国屋書店

ISBN4-314-00704-4

 

Cixous H:L'Amour du Loup. 1994