昨年の今頃、シクスー先生の本を読んで、もう少しこの人の本を読みたいと購入。
はや1年。
ようやく読み終わりました。
デリダも何を書いているのかわかんないのですが、シクス―さんも文体がまるっきりデリダで、なんだかわからない。
ただ彼らの文体は精神分析に影響を受けているので、言葉に複数の意味を持たせて、分かる人が分ればいいとこちらに丸投げしてきます。
ならば、こちらも勝手に読みます。
本書は各論文の順番が「狼へ/の愛」「1991年10月に」「何時ですか?あるいは人が通らない扉」「性的差異のお話」「蟻」です。
しかし「性的差異のお話」「蟻」(1990年10月)「1991年10月に」(タイトル通り)「何時ですか?」(1992年7月)「狼への愛」(1992年10月)の発表順で考えます。
彼らの文章は呼応しあっているので、そうしないと分からなくなるからです。
私はこの本、ざっと読んで訳が分からず、最後にあっと思って、もう1回、後ろから読み直しました。
「性的差異のお話contes」
Conteは「あてにならない話」という意味もあるそうです(クラウン辞典)。
性的差異を論じるのは困難で「あてにならない」ということですね。
デリダの割礼の話が不思議と繰り返されますが、シクス―先生は割礼を「膜が無くなってプラスになる」と読み替える(p161)。
これは女性のこともほのめかされている(デリダが後の論文「蟻」で「羽のある蟻、処女膜のある羽(p213)」と書いているのはシクスーへの呼応だと思います)。
また割礼は、切られる、徴づけられる、書かれることであり(p160、165)、自分の意志に反して母によって行われる(p164)。
これがシクスー先生のいう男。
つまり、書くこと、母に従うこと。
一方、「女性(私)は体の側にいる」(p178)。
そして女であるということは「内部がある」。
「性器は心coer」である(p179)。
つまり、書くこと以外、内面性。
単純な二分でいいのかというと、もちろんそうではない(p187)。
女性であるシクス―先生も「書いている」し(p189)、性的差異は「領域でも、物でも、二人の間の空間でもなく、運動そのもの」(p186)で、他と接することで<私であるあなた>を出現させること(p187)。
性的差異は実体的なものではない。
他と接することで析出する。
そして析出したあなたは私でもあるし、私はあなたでもある。
差異はあるようでない。ないようである(としか言えない)。
シクス―論文の返答:デリダの「蟻」。
蟻という単語の定冠詞が男性形か女性形かが論じられる(もともと女性名詞)。
蟻はシクス―先生がデリダに電話で話した夢の内容なのだそうです。
夢の話を電話でするって、この二人・・・・と下種の勘繰りはやめて、続けます。
蟻からデリダは連想を広げる。
昆虫を意味するラテン語は本来、中性名詞だった。
蟻の体には線が入っている。切断することなく分けている。
「切られているもの」と「切られていないもの」のあわいにある蟻。
あるいは「分離」と「修復」の往復(p214-218)。
そもそもラテン語の昆虫isectaはギリシャ語のentomosから来ている。
これは「刻む」「書く」「(男か女の)生贄の喉を切る」を意味する(p238)。
シクス―が男側にあると述べた「書く」を、デリダは女性名詞の蟻にも見る。
「性的差異は見え(voir)ない。知(savoir)ではない」
つまり分からない(non-savoir)(p248)。
ただ「読む(lecture)ことにおいてのみ性的な差異が行われる」。
それは「解剖学的事実、戸籍、性的同一性を証言すること」(p242-244)。
読む(lecture)は、辞書によれば「解釈」の意味もあります。
つまり性的差異は、個別的な証言という曖昧なものに頼るしかない。
あるいは、個々で考えるしかないということなのでしょう。
「1991年10月に」
まず愛について。
「愛の最大の証は愛の最大の証を口にしないこと」(p54)。
信じる信じられないと愛は別次元である。
さらに愛していると証立てないことが、愛の証明。
気を付けないといけないのが、われわれ日本人のヤローどもの「愛していると言わない」行為がシクス―の「証立てない」ではないということです。
「最大の」を見逃してはならない。
「最大の証」だから「愛していると言う以上の何か」です。
「愛していると言うこと」は当然の前提。
ああ、めんどくせーなあー・・・・あ、なんでもないです。
シクス―先生は「ジェンダーは苦手」。
なぜならそれは「『で、男性は』と問うこと」だから。
「女性であると想定されている私たちにとって問題は『いかにそれ(男性)について話すのか』」だが「男性について話すべきではない」。
「書いたり愛することはできる」けれども。(p69)
なんだかわかりません。
以下勝手な妄想。
ジェンダーの問題に関わると「男性は?」という問いに答えなくてはならない。
そうすると男性ではない者として男性について答えることになる。
この行為自体が男女という二分を認めることになる。
シクス―先生の表現なら「女性であると想定されている」を認めることになる。
ちなみに「想定される」はエライ精神分析家の「知と想定された主体」をぱくったと思われる文章なので、おそらくsupposeだと思います。
想定するsupposerの過去分詞。
ちょっとデリダたちの真似をします。
Suppseはse-possedeでもある。
Se-possedeは「自制する」です。
「女性であると想定されている」は「女性としてー自制した」に言い換えられる。
それは女性として受け入れられないことですよね。
話を戻して、なのでそれについて返事を控えるべきで話すべきではない。
では「書くこと」「愛する」ことはなぜ許されるのか。
「話す」は原語ではparlerです。
実は「蟻」でデリダが、性的差異の議論で「言わなかった」ものがあると述べています。
それは「par」がつく単語。
部分part, 先入観parti pris, 分離separation, 分割partition・・・(p247)。
「分かつ」「離れる」に関連する語群です(ここはシクス―論文の、parを含む「見える」「顕われる」関連語列挙の呼応p201)。
Parlerをしてはならないというのは、このデリダの議論の呼応。
Parlerもデリダが性差の議論で触れなかった「par」を含んでいる。
つまり「分かつ」動作の一つ。
男女を安易に分けてはならない。
だから話すparlerことはしてはならない。
「書く」は?
それは男にあるとシクス―が考えたものでした。
「書く」を女性がするのは男女差がなくなること。
「愛」は?
シクス―的にはこれが女性サイドにあるものなのかもしれません。
まだこの論文ではわからない。
全体的に「性差はない」と言いつつ「性差はある」と主張しています。
以下続く。