あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
さて、1月1日から仕事でした。
仕方ありません。そういう仕事を選んだのだから。
合間に読んだのが長らく積読だった「ヴェール」。
エレーヌ・シクス―の本は1冊だけ持っていますが、読みにくくて積読状態のまま。
しかしこの本のシクスーが書いた「サヴォワール」は読みやすい。ただし、文章は、ですが。
エレーヌ・シクスーさん お美しいです(Wikiから転載)
一方のデリダは相変わらず。
デリダの本を読むときの楽しみは訳注を読むことです(ふんだんな掛詞から語源などが学べる)。
デリダの「蚕」が何を伝えようとしている(と考えられる)かは、訳者の郷原先生のご説明以上のことは私にはわかりません。
もっとも重要なのは真理観について。
<覆われているものから現れる>=真理のハイデガー、あるいは真理は<隠れている(覆われている)>というフロイト(p40、48、62-63、87-99)。
それらとは異なり、タリート(ユダヤ人が使うスカーフのようなもの)をキーワードに<身に着ける>(p106)、あるいは<見る/見える>ではない<触れる>(p70-77)という真理観をデリダは提示している。
しかし、この真理観は性差を超えた多様性を示しているよう(p99、139-146)で、結局は性差から離れていない(p107-117)。
郷原先生がご指摘なさっていない点で私が気になったのは、デリダが「一回性」「唯一性」(p104、114、145)を繰り返し指摘していること。
デリダですから当然ハイデガーからの引用でしょうが、私的にはヤスパース先生と結びつけて考えたくなります。
ところで、シクスーが述べているのは手術で近視から解放された彼女が新たに世界に接したかのように感じたという自身の経験です。
デリダは、彼女がヴェール超しに世界を見ていたような状態から解放されたという論述から<別の真理><別のジェンダー論>への可能性を論じているわけで、それはそれで非常に刺激的なのですが、私としてはシクスーの論に戻ってちょっと考えてみたいです。
一つはp19の記述。
「ひとは彼女に言った。きれいな眼ですね。彼女は答えたものだ。私は近視です。彼女は信じてもらえなかった。彼女は聞いてもらえなかった。彼女は知ってもらえなかった」
もう一つがp22.
「<自分が見られているのを見ないこと>、それは処女性、力、独立だ。見えない彼女は自分が見られているのが見えなかった、それは盲目の軽さが彼女に与えてくれたもの、自己消去という偉大な自由だった」
男が「きれな眼ですね」などと言われることはない。
女性が、まず身体性で評価されてしまうこと。
そして語る内容が満足に評価されないこと。
彼女の語りは「信じてもらえ」ず、「聞いてもらえな」い。
理解もされない=「知ってもらえな」い。
自分が見られることを見る(voir=わかる)のではないことが力であるという悲劇。
自分が見られる性であると知らないでいることはある種の自由かもしれないが、自己についての無知状態でもある(=自己消去)。
ところで視覚に障害がある方々は<余計な情報が入ってこない分、脳に余裕がある><俯瞰的な理解に優れる><幾何学的抽象的な空間把握になる><視点がないので死角も表裏のヒエラルヒーもない><文化的バイアスがない>状態なのだそうです(「目の見えない人は世界をどう見ているのか」伊藤亜紗 光文社新書)。
ギリシャ神話のテレイシアスがいい例ですが、多くの神話や言い伝えで賢者や予言者が盲者なのは、「見えない」からこそ「見通しが良くなる」ということを示唆しているのだということが、伊藤先生のご著書でわかりました。
伊藤先生のご著書を踏まえて、「近視で見えなかった」シクスーの論文からもう一点、考えたいことが。
テレイシアスが両性具有だったことです。
<見る>が男の感性だとすれば、女性はどうなのか。
デリダは「触れる」に注目しましたが、人間には「聞く」「匂う」「味わう」もある。
「触れる」をもっと細かくみれば「温かさ」「冷たさ」「痛み」「かゆみ」・・・・いろいろありますし、皮膚感覚ではないけれども深部感覚としての「運動」「位置」などもある。
正月早々、あれこれ妄想中です。
エレーヌ・シクスー、ジャック・デリダ「ヴェール」 郷原佳以訳
4000円+税
みすず書房
ISBN 978-4-622-07811-1
Cixous H, Derrida J: Voiles. Galilee, Paris, 1998