「最終飛行」を読了後、サン=テグジュペリの作品のことがわかっていないと反省し、本屋さんで購入。

 で、自宅に戻ると、同じ本が本棚に・・・・(訳者は違います)。

 

 どうやら、倉橋訳「星の王子さま」購入時に、同じような発想で購入していたようです。

 私は30年間、まったく成長していないということですね・・・・。

 

 

 本書。

 郵送のために危険な夜間飛行している操縦士3人と、民間航空会社の所長さんの話。

 そこで起きた、ある一晩の話。

 

  

 この作品、小説でしか味わえない雰囲気をもっていると思います。

 映像にすればわりと騒々しい物語だと思うのですが、小説では非常に静謐な印象です。

 夜が舞台なのためということもあるでしょうが、それだけではない。

 登場人物が少なく、名前が明らかな人物はわずか数名、実質的には社長のリヴィエールと操縦士ファビアンの物語といっていい。

 しかも一つのシーンに一人か二人しか出てこない。

 また人物の内言か、短い言葉の交わし合い、あるいは端的な状況説明だけの硬質な文章。

 ファビアンなんて、ほとんどしゃべらない。

 

 

 もともと中編だったらしいのですが、サン=テグジュペリが刈り込んで、現在の短編(全部で130ページ程度)になったのだそうです(解説p148)。

 この長さがちょうどいい。

 物語冒頭は夕方から始まり、前半は夜中までの6時間程度。

 しかし、中盤の大変なことが起きる第10章あたりが真夜中の0時、物語が終わるのは午前2時まで(全23章)。

 後半はわずか2時間強です。

 読書体験と、物語の時間の流れがほとんど一致している。

 また、二木先生の御指摘で実は時間軸を微妙に変化させている(とも読める)(解説p156-158)。

 相当に凝った構成です。

 

 とりわけ、第12章の切迫感(特にp82-83)。

 サン=テグジュペリ自身が経験したことがある緊急事態の時間感覚なのでしょう。

 そして、この短さの中で、ファビアンとリヴィエールの不安、期待、恐れ、諦念がわずかな単語で描かれています。

 

 最後の一文に「勝利」という言葉がでてきます。

 決して字義通りではないです。

 とはいえ、皮肉でもない。

 

 安直なヒロイズムに回収されない。

 

 

 孤独感と無力感、しかしそこで足をとめて「苦悩」していることなど許されない、私心の優先度を下げ、責任と義務を負って前に進まざるを得ない、いくばくかの倦怠とむなしさを抱えつつ・・・・という、まことにハードボイルドな小説でした。

 

 たとえば以下。

 

 「われわれはいつも、それ(人命)以上に価値の高い何かがあるようにふるまっているのだから・・・・。だが、その何かとは何なのか?」(p98)

 「愛する、愛する、ひたすら愛する。それだけでは行き詰まるだけだ」(p99)

 

 私心を捨てるほどのヒロイズムに浸ることはできない。

 しかし、私心では何かを為しえない。 

 

 サン=テグジュペリってこういう小説を書くのか・・・と、さっそく「戦う操縦士」を注文しました。

 

 

 

 

 さて、翻訳。

 私が購入したのは二木先生のもので、本棚で積読になっていたのは堀口大學訳です。

 以下、例によって比べます。二木(F)と堀口(H)とします。

 冒頭の文章。

 

F:夕暮れの黄金色のなかで、飛行機の下につらなる丘にはすでに長い陰影が彫り込まれていた。平野は光に満たされ始めていた、それも色褪せない光に。

H:機体の下に見える小山の群れが、早くも暮れ方の金いろの光の中に、陰影の航跡を深めつつあった。平野が輝かしくなってきた。しかし、いつまでも衰えない輝きだ。

 

 二木訳。

 操縦士ファビアンの視点で「見まわしている」よう。

 おそらく操縦席から見える前方の遠景 → 飛行機に戻って → その真下の近景(?) → 中景という感じでしょうか。

 「陰影が彫り込まれる」って、後でお見せする舞台のパタゴニアの山並みの深さを感じさせて素晴らしい表現だなって思います。

 

 堀口訳。

 まず飛行機の真下の近景(?)、→ 中・遠景とシンプル。 

 非人称的で、誰かの視点でなく、客観的な情景描写という風味。

 

 どちらも素晴らしいのですが、この作品の全体の印象では突き放した描写がいいので、冒頭については堀口訳でしょうか。

 

 ところで二木訳は「丘」ですが、堀口訳は「小山」になっている。

 原語はわからないのですが、パタゴニアの写真をみると・・・

 上のサイトからひっぱりましたが、やっぱり「小山」ですかね。

 

 「丘」だとなんだか南仏辺りの穏やかな平地を思い浮かべてしまいます(私だけ?)。

 

 あと、最後の文章の「色褪せない」か「衰えない輝き」かについて。

 要は南半球の緯度が高いところなので、日の高さが低くて夕暮れの時間が長いということですよね。

 夕暮れの色はそのまま、徐々に暗くなっていく。

 だとすれば、色と光を別々にした二木先生訳がいいでしょうか。

 色に言及せずに光だけにまとめた堀口訳だと白夜みたいですし。

 

 

 迫真の第13章の真ん中。

 搭乗している無線担当が、ある中継地点からの指示をファビアンに伝えた時の彼の返事。

 

F::「却下。バイアブランカに現地の天候を問い合わせろ」

H:「うるさいぞ。バイア・ブランカの天候をきけ」

 

 これは絶対に二木訳。

 当時のパイロットって民間でもたぶん元軍人のはずで、そういう方は感情的なことは無駄なので、たぶん言わない。

 で、とにかく正確なことを伝えると思います。「どこに」「なにを」「どのように」みたいに。

 

 

 最後。

 これ二木訳だと一瞬意味が分からなかった。

 単語だけにします。

 

F:二人の子供(p111)

H:二人の部下

 

 二木訳がたぶん忠実な訳なのでしょうが、前の逸話があったために一瞬戸惑いました。

 堀口訳はおそらく意味を通すために訳し直していると思います。

 

 

 

 今更なのですが、海外文学の翻訳って難しいですよね。

 だいたい大学の先生がなさっている、でも大学の先生は文学者ではない。

 だから文章や文体の美しさなどの点では不利になる。

 じゃあ作家さんが翻訳すればとなると、これはこれで当該作品の社会背景や世相、その国の特徴的表現を知らないと誤訳になりかねず、そのような専門的知識は学者さんの方が上。

 

 

 倉橋由美子訳の「星の王子さま」を読んでいて、ホントに今更気がつきました。

 たまには明治大正期の我が国の名文家さんの本を読まないかんなと、最近になって思うようになりました。

 あまり外国文学ばっかり読んでいるのはきっとダメですよね・・・・

 

 

 

 

 

 

 

サン=テグジュペリ「夜間飛行」   二木麻里訳

553円+税

光文社古典新訳文庫

ISBN 978-4-334-75207-1

 

 

同  堀口大學訳

466円+税(?)

新潮文庫

ISBN 4-10-212201-x

 

 

de Sainte-Exupery A: Vol de Nuit.  1931