誰もが知っている「幸福な王子」。

 「まんが世界昔ばなし」で、宮城まり子さんのナレーションで見たような。

 

 私の長年の疑問が、エロ・グロな「サロメ」を書く人がどうしてこのような「道徳的な」物語を書いたのかです。

 

 

 

 「幸福な王子」、連作童話 The Happy Prince and Other Talesの一部で、冒頭を飾る物語でした。

 一般的に知られている筋と異なるのは、まず冒頭から。

 

・王子像を「美しい」が「役に立たない」と有能な市議会議員が独り言つ。

・燕は、春に出会った反応するはずもない葦に恋をして、エジプトに行きそびれている。

 

 ここ以後は知られている通りですが、ラスト

 

・王子の像を市長と議員は「みずぼらしい」「無用な長物」と考えて溶かしてしまい、市長か議員の像に作り替えることにする。

・鋳物工場で像は溶かされるが心臓だけ残り、燕の遺骸とともに捨てられる。

 

 以下、神さまが天使に心臓と燕をもってこさせる幕引きは同じ。

 

 

 この連作童話、鳥と花と自己犠牲のモチーフが繰り返されます。

 

 第二話「小夜なき鳥と薔薇」

 ある若者が恋する女性に赤い薔薇を捧げたいと言う。

 それ聞いたナイチンゲールは赤い薔薇を手に入れるため自分の身を犠牲にする。

 若者は薔薇を女性に捧げるが、女性は宝石でもないものに価値はないと薔薇を捨てる。

 

 ・・・・なんとも後味が悪い。

 

 第三話「身勝手な大男」

 大男が留守にしている間、彼の美しい庭が子供達の遊び場になっていた。

 子供達を締め出す大男。しかし、季節が冬で止まってしまう。

 突然、胸赤鶸(ムネアカヒワ)の鳴き声を聞く大男。

 庭を見ると、花々が咲き子供達が遊んでいる。

 大男はなぜ春が来なかったのか理解する。

 子供を抱き上げるとキスをされ、大男は庭を開放する。

 再び子供をみつけると、その子の手足には釘跡が。畏怖を抱き跪く大男。

 

 善行/自己犠牲が何かしら結果を生むという意味では、第一話と似たテイスト。

 解説によるとワイルドはこれを自分の子供に読み聞かせている時、涙ぐんでいたそうです(p269)

 

 第四話「忠実な友」

 胸赤鶸が「忠実な友とは自分のいうことを聞く者」と言い張る水鼠にある話をする。

 美しい花の咲く庭をもつハンスに、ヒューという友人がいた。

 冬をしのぐため手押し車を売ったハンス。花を市場で売り、その金で手押し車を取り戻すという。

 ヒューは余った手押し車をハンスにやる代わりに、家の屋根の修理を頼む。

 その後も手押し車を理由に、ハンスはヒューの頼みを聞いていく。

 ある日、ハンスはヒューの頼み事が原因で命を落とす。

 胸赤鶸は「物語の寓意はわかったか」と水鼠に聞くが、水鼠は不貞腐れて帰ってしまう。

 

 第二話と似た後味の悪さ。

 ただ、花を運ぶ手押し車が無いのに、どうやって花を売って手押し車を買い戻すんだ、ハンスさん、というおかしみがある点で、耽美的な第二話と違います。

 

 最後。第五話「非凡なる打ち上げ花火」 

 美しい王子と王女の結婚式が開かれ、様々な花火が準備される。 

 自尊心が高い打ち上げ花火は、自分が最後に打ち上げられると思っているが、そのまま捨てられてしまう。

 捨てられた水辺で家鴨たちなどに揶揄されても、階級が違うと相手にしない打ち上げ花火。

 結局、お湯を沸かすために子供に拾われて小枝と一緒に火にくべられる。

 そして、誰に見られることもなく爆発する。

 

 うーん、ワイルド節。

 

 

 以下、色々思い付き。

 

 第二話

 ナイチンゲールは、ギリシャ神話では、プロクネーとピロメーラー姉妹のどちらかの化身だそうです(物語によって異なる)。

 神話では、被害を受け入れる、あるいは愛するものを捨てるなどの彼女らの自己犠牲が、何も生み出さないという悲劇。

 

 第三話

 子供たちに喜びを与える善行が、キリスト的存在によって祝福される。

 大男は人食い鬼のもとに滞留して庭を留守にしていた設定なので、原始宗教的あるいは神話的登場人物。

 彼とキリストが混在する。

 

 第四話

 自己犠牲どころか善行が何ももたらさない。

 ただハンスの善行は、他人の意見に左右され、自発的ではない。 

 

 第二話から第四話:他人に促された善行や自己犠牲は何ももたらさない。

 第五話だけ、自尊心が高い=承認欲求が強いと、却って誰にも注目されないという教訓話(?)。

 

 

 

 

 「柘榴の家」も連作ですが、はるかに素晴らしく、童話の枠に収まらない作品だと思います。

 こちらの方が気に入りました。

 「若き王」「王女の誕生日」「漁師とその魂」「星の子」、いずれも名作。

 ワイルド的耽美な世界が描かれつつ、皮肉さ、妙なところで顔を見せる現実性、後味の悪さも兼ね備えています。

 

 「若き王」「漁師とその魂」「星の子」は、いずれも教訓物で、横柄だったり過ちをおかした主人公があることを契機にして身を改める、あるいは罰を受けるという形式ですが、それぞれ違う。

 「若き王」のラストの神々しさ。

 「漁師とその魂」は、命は本人にあるけれど魂は影にある、で、影を魔術で切って、影だけが別の経験をしているという設定の妙。

 諸星大二郎みたい(褒めているのか??)。そして、宗教的ラストがただただ美しい。

 「星の子」、最後の段落の底意地の悪さ、まさにオスカー・ワイルド。

 似た風味が「王女の誕生日」で、私はこの二つの作品のラストがお気に入りです(非常に性格が悪い)。

 

 美しさと宗教的タブー感が漂う、とても魅力的な作品群です。

 

 

 おお、と思ったのが「若き王」の台詞。

「王さま、あなたはご存知ないのですか、富める者の贅沢が貧者の命を支えていることを?あなたさまの豪奢な生活が私どもの口を養い、あなたさまの不徳な行いが、私たちに糧を与えていることを?(略)」(p126)

 

 こういう身も蓋もない現実的なことを教訓話で民衆に言わせるワイルド。 

 クリシェな「人の上に立つ者は清貧であれ」みたいな物語に比べると、本当に教育によさそう(半分嫌味。でも半分本気です)。

 

 

 

 解説では「幸福な王子」を、身勝手と思いやりの対比、そこに時間の流れが入るとどのような悲劇が待っているのかという物語と指摘されています(p271-276)

 得心がいく議論でした。

 私なりに考えてみたいです。

 

 

 やはりオスカー・ワイルドの童話は一筋縄ではいかないです。

 

 

 

 

 

 

オスカー・ワイルド「幸福な王子/柘榴の家」   小尾芙佐訳

880円+税

光文社古典新訳文庫

ISBN 978-4-334-75347-4

 

Wilde O: The Happy Prince and Other Tales/ A House of Pomegranates.  1888/1891