GW。
仕事もちょっとあったけど、基本、平和だったので本も読めました。
しつこいけど、外に出ちゃいけなかったし。
仕事関連の本と平行して、あれやこれ。
その一冊。
面白かった!
あっという間に読み終わりました。
本作は横光が「純粋小説」という不思議な呼称をした作品。
「純文学にして通俗小説」なのだそうです(解説p236)。
登場人物は、すこしぼんやりしている夫の丹羽を小馬鹿にしている奈奈江が主人公。
そして奈奈江が好意を抱く、幼馴染の梶。
梶がうっすらと好意を向けているらしい奈奈江の義妹藍子。
そして、藍子がどこか意識している高(こう?たかし?)青年。
最後に高は奈奈江に愛情を感じている。
まるで<ウロボロスの蛇>な人間関係。
しかし、付かず離れずでとぼけた雰囲気もあり、能天気な恋愛模様を描くのかなあと思っていたのですが、徐々にダークな雰囲気に。
登場人物たちは狩りをしたり、帝国ホテルや外国人も泊まる軽井沢のホテルに宿泊したり食事をしに行ったり、清元を趣味にしていたりと、完全に上流階級の話。
本作が発表されたのが戦争直前だったため、時代の雰囲気からかけ離れており、そのためにこの作品は埋もれてしまったのではないかと思ったりします(後述しますが、埋もれた理由はそれだけではないとも思います)。
しかし、これ、「敢えて」の設定です(たぶん・・・。時代も国籍も曖昧にしたかったのではないか、アニメでなく漫画の「ルパン三世」みたいに・・・って例が悪いか)。
言葉遣いをはじめ、驚くほど現代的(そもそも主人公の名前が奈奈江って、昭和一桁の女性に思えます?)。
ある人物が主人公に(たぶん)ラブ・レターを送るのですが内容は作中ではまったく明かされず、場面が急に変わって、その返事の文面がそのまま描かれる技巧もお洒落(p45-46)。
ある登場人物が、三越で上演される清元を聞きに行くのですが、その演目が「十六夜」(p85-86)。
読者としては、お、十六夜清心のように男女の転落がこの後に待っているのか?と思わせる(のですが、これは果たしてそうなのか、ミス・リードか・・・)。
しかも十六夜でも重要な大川(隅田川)の見えるところにその人物は住んでいる(p86)。
「時代設定は現代」と言われてもホントにおかしくない。
解説の秋山駿先生が、初めてお読みになった時の印象がないとお書きになっているのも無理もありません。
何しろお読みになったのが「終戦直後」だとすれば(解説p228)、このような設定の小説を焼け野原で読んでも、およそ浮世離れしてバカバカしいとしか思わなかったことでしょう。
話を戻して、本書を読んでいるうちに登場人物たちの名前の音が重要な気がして、試しに頭文字をローマ字表記すると以下のように。
Na(奈々江さん) ← Ko(Ta?)(高くん)
↓ ↑
Ka(梶さん) → A(藍子さん)
おお?!
もっと人間関係を広げると
Ji(「実に」さん)
↓
Ni(丹羽) ⇔ Na ← Ko
↑ ↓ ↑
Ki (Ko?)(木山夫人) Ka → A
なんか、共通点ありませんか?
縁戚のNaとAで、母音のA。
夫婦のNaとNiで、子音のN。
登場人物たちを愛情の対象にするKaとKo(とKi)で、子音のK。
中核的人間関係の周辺で、関係性をややこしくする人物がKiとJiで、母音のi。
まま、私の妄想です。
それからこの小説、詩の「連」のような区切りがあり、その都度視点が変わる。
語りは神の視点ですが、描き方が<ある登場人物から見た他の人物たちの行動>というパターンなので、主語は三人称なのに、夢中になって読んでいると無意識に一人称的な読み方になっていて不思議です。
途中で気付いて冒頭から読み直し、視点と対象との関係を記号化してみると以下のような感じになります。
まず最初のシーン(連)は、Na、A、Koが勢ぞろいし、あまり偏りはない(視点の交代はすでにあります)。
その後の「連」ごとに、左が視点主(?)の人物、右が対象化されている人物(とはいえ一瞬だけ視点が移ることもあり)として並べると;
Na-Ko
Ko-A
(繰り返し)
Na-Ko
Na-Ni
Kaの独語
(繰り返し)
Ka-Ko
Ko-Ka
Na-A
Na-Ko
Na-Ki (?曖昧)
Na-Ko
Ka-(Na-Ko)
Na-Ko
Ka-(Na-Ko)
A-Ka/Ka-A
・・・・ともうやめますが、視点が頻繁に交代し、前の「連」の対象側が次の「連」の視点になり、「連」の中で視点が交代し、ある「連」では視点が二人の行動を見ていたりと、まるで数式を見ているようです。
全部の「連」について書くと、私がアレな印象になるのでやめますが(上記でもまだ1/3)、全体でおおよそNaとK(KaかKo)が交互しています。
私が書き散らかした妄想。かなり危険な香り
以上は形式的、構造的なことですが、内容も面白い。
それぞれの立場で相手の心理を読み、「相手はこう思っているのだろうから、自分はこう振舞って、そうすると相手はこう読むはずで、それを見ている誰それはこう考えるはずだから・・・・」という心理戦が中盤から始まる。
あたかも、「私は<あなたは『私は”あなたは私のことが好きなのではないか”とあなたが考えていると思っている』と私が思っているだろう>とあなたが思っていると考えている」・・・と、レインが「結ばれ」(みすず書房)で描いた、地獄のような無限後退の様相を呈します。
・・・ということで、たぶん、おわかりになると思います。
なぜ、横光が本作を「純文学にして通俗小説」と考えていたのか。
内容は不倫とその経緯という、まったくもって通俗小説。
しかし、構造が数学的なのです。
そして内容も、一見、心理の読み合いなのですが、やはり数学的(だと私は思いました)。
互いに読み合っている考え自体がどこか人工的というか、頭で考えているなあという印象。
さらに、語りは目の前の人間との関係の間での心の動きだけで、全体を読み通しても各登場人物の全体像はまるで見えてこない。
せいぜい梶氏が嫌味なくらいにディレッタントであること(p28-29)、丹羽さんが鈍いのか全てお見通しの上で知らない振りをしているのかわからないくらいで、他の人物の性格は説明できない。
この小説がラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」を下敷きにしているだろうという説(解説p230-231)は納得できます。
しかし、残念ながら「ドルジェル伯」のような、登場人物の個性と運命の歯車が不幸にも合ってしまったという生き生きとした運動性が、本作の物語にも語り口にも欠けている。
外力がいったん働くと、そのまま一定の速度で動き続ける自律した機械のようなのです。
秋山先生は、おそらく横光はラディゲを読んでいなかったのではないか、ラディゲ評を読んで本作を執筆したのではないかとお書きになっていますが(解説p231-234)、私もそう思います。
「ドルジェル伯」を読んじゃったら、本作のようなものは書かなかった(書けなかった)んじゃないかなあと。
とはいえ、描写の抽象性も含め(翻訳すると舞台が日本とたぶん分からない)斬新、というか数学的科学的で、とても横光らしい。
だから、これを「普通に」読むと「なんじゃこりや」という感想が一般的かもしれません。
忘れられても仕方のない小説かもしれない。
でも、横光ファンの私には、「これぞ横光!」な一作です。
ちなみに当時の評。
「寝園の最大の欠陥(略)は、人物、殊に女性が、物を考へ過ぎる点であつた。」
ここまでは噴飯ものですが
「(略)奈奈江の考へ方の中には、作家の類推が見え過ぎるやうであつた。」
うん。
でも、「作家の類推」が強すぎるのは奈奈江だけでなく、全ての登場人物だと私は思います。
横光の盟友、川端の評。
「(略 本作を読んで)最も心を惹かれるのは、丹羽の底抜けの善良さである」
ここから秋山先生は、本作に描かれた「善良さ」「無垢なるもの」について考察なさっています(解説も一読の価値あり)。
私は、本作が「計測できないもの」「無垢なるもの」を描いたという感想を持てるほど横光を読んでいないし、そこまでの見巧者ではないので、<科学的な文学作品>(?)という変な感想しか持てないのが正直なところです。
ちなみに、「機械」はほぼ同時期に発表されているそうです(解説の年表から)。
もう一回「機械」を読んで、本作について考えてみます。
しつこいけど、ホントに大好きなんです、こういう小説。
面白かった!
横光利一「寝園」
940円+税(古書)
講談社文芸文庫
ISBN 4-06-196169-1