最近、ずーっと「TENET」のサントラを聴いています。

 ハンス・ジマーのパクリかと思ったら、意外にそうでもない。

 「ダンケルク」は時計のリズムに急降下爆撃機スツーカのサイレン音、射撃音、警笛などをモチーフにした音を重ねていく手法でした。

 今回も刻む(ただし不規則)音を中心にしていますが、様々な音がポリリズムで重ねられていて、無茶苦茶、かっこいい!

 しかも、メロディーだけ取り出すと本当に切ない。

 で、ニールの「悲劇」ばっかり思い出してしまう。

 あの赤いお守り。

 私が思うに、ニールは、ネットであふれている解釈で多数意見の、おXさんのXをXXXXためではなく、むしろ、おXさんをXXためにXXXXのではないでしょうか(自粛します)。

 あー、また見に行きたいなあ。

 

 

 さて、後藤明生の本が面白かったので、影響を受けたという横光利一を読みたくなって本屋をうろうろしていたのですが、驚いたことにない!

 ないですよ、皆さん。

 試しにお近くの本屋さんにどうぞ。

 たぶん一冊もないですよ。

 

 驚きです。

 私が中学か高校の時に教科書に載っていたのに。

 

 

 なので、仕方なく南米大河さんに注文(ちぇっ、悔しいなあ)。

 

 

 ・・・で、読んでみましたが、本当に面白かったです。

 てか、文章がかっこいい。

 ものすごく刈り込まれていて、もはや詩のよう。

 逆にほとんど改行せず、長々と一体いつ句点にたどり着くのかという文章もある。

 内容はこっぱずかしくなるような惚気話だったりすることもありますが、文体が無機質なのでその齟齬がいい(齟齬が逆にすかしている印象になることもありますが)。

 

 もう、ドはまりです。全集を買おうかなあ。

 彼の文学論も面白そうです。

 なんでもカントを使っているのだそうです。読みたい!

 

 彼が活躍した大正時代はモダンな「こじゃれた」小説が多かったそうです(彩流社 解説p309)。

 確かに横光の小説も、一見、「オサレ」なのですが、しかし、根底には悲哀や諦念のようなものがあります。

 一連の「園」シリーズなんて死がテーマ。

 そこが魅力です。浮ついていない。

 

 

 有名な「蠅」のラストもそんな感じですね。

 私が教科書で読んだのもこれ。

 でもですね、ご本人によるとこの作品は「性欲」を描いたのだそうです(ええ! 岩波文庫解説p291-292)

 よく教科書にのせたな、文科省。

 てか、わかってなかったんだろうなあ、文科省。

 

 

 彩流社のものは、「セレナ―ド」「表現派の役者」「鼻を賭けた夫婦」「火の点いた煙草」など、のろけるのもいい加減にしてほしい・・・でもかっこいいものが多いのですが、一方、「榛名」などの静謐なもの、死の匂いが濃厚な「月夜」「草の中」「園」も素晴らしいし、ゾラばりの<デパート小説>「七階の運動」なんか、とても面白いです。

 

 「盲腸」に至ってはコントです。

 でも、しっかり死が絡む。

 出だし。以下引用(p210)

 

 Fは口から血を吐いた。Mは盲腸炎で腹を切った。Hは鼻毛を抜いた痕から丹毒に浸入された。この三つの報告を、彼は同時に耳に入れると、痔が突発して血を流した。彼は三つの不幸の輪の中で血を流しながら頭を上げると、さてどっちへ行こうかとうろうろした。

 「やられた。しかし、」とFから第二の報告が舞い込んだ。

 「顔が二倍になった。」とHから。

 「もうだめだ。」とMから来た。

 -俺は下からー彼は云った。

 

 以下引用終わり。

 

 すっとぼけていて、おかしい。

 この文章、目で追っていても気持ちいいけど、音読するともっと気持ちい(痔の話ですけどね・・・)。

 Fの「やられた。しかし、」と読点で切っているのも、なんかいいです。

 F氏、きっと話が長いんじゃないかなあとか。

 

 

 ちょっと気に入った表現をいくつか。

 「肉体とは愛への二つの平行線の距離である。霊魂とは愛への輻射点への速力だ」(「園」)

 横光っぽいですよね。科学用語を使う。

 

 並行する二人の間にある距離が「肉体」って、なんか昭和っぽい(大正だけど)です。

 あくまで性に悩んだ時代の人なんですね。

 

 

  「薔薇」のホモソーシャルな二人の男の関係も面白いのですが、そこでの文章。

 「結婚してからの夫婦間の友情というものは、結婚以前にどこかぎりぎりとさし迫った動物的な意地汚いところのあるものとは違って、ゆったりとのどかで良い」

 ああ!わかる!

 私は<合コン>なるものが生理的に気持ち悪くて(あと、どうぜもてなくて)ダメだったのですが、それをうまく言語化してもらった気分です。

 

 

 それと、名作「機械」の、相手に対してどう接すれば分からなくなった時の困惑の描写。

 以下引用。

 

 まるで体と肉体が一緒にぴったりとくっついたまま存在とはよく名付けたものだと思えるほど、心がただ黙々と身体の大きさに従って存在しているだけなのだ。

 

 引用終わり。

 私たちがいかに普段、身体性から離れて思考したり意志しているか。

 そして「自分がちっぽけに思える」「身が縮む思い」というクリシェで語られがちな<恥><困惑>という感情を、私たちは原理上、身体という存在以上に小さくなりえない、むしろ身体という枠の中でまったく可動性を失っていると表現した方がいい、無力感や支えの無さをうまく表現しているなあと感心します。

 

 

 かと思えば、「生活とは何か」「苦しみとは何か」(「美しい家」)とか「死とは何か」(「春は馬車に乗って」)など、いきなり直球球が来る。

 でも、変化球が多いので、このような直球がかえってずしんときます。

 

 「青い石を拾ってから」は当時の朝鮮が出てくるのですが、ろくでもないのが日本の役人で、しっかりしているのが軍人だったり朝鮮人だったりで、少し反権力的な側面や弱者への関心、そして因果の残酷さなどが、ウェットにならず突き放して描かれていて、これも直球系ですが名作だと思います。

 

 

 

 さて、今回、お勧めなのが「日輪」です。

 初期の作品なのだそうですが、フローベールっぽいなあと思ったら、ホントにフローベールの影響を受けたのだそうです(岩波 解説p291)。

 どういう影響かは解説には書いていないのです(あら筋?)、私は「三つの物語」の「エロディアス」っぽいと思いました。

 当時の風習や道具、物の名前を一切、注釈なしでそのまま描いてしまう。

 やたらリアルだけど、なんだか分からない箇所だらけ。なんとなくわかる程度。

 でも面白い。そこが、そっくり。

 

 以前、スター・ウォーズの作りこみ方もこんな感じだと書きましたけど・・・

 

 たとえば。以下引用(岩波p187-188)

 

 身屋の贅殿の二つの隅に松明が燃えていた。一人の膳夫は松明の焔の上で、鹿の骨を焙りながら明日の運命を占っていた。(略)膳夫は振り向くと、火のついた鹿の骨を握ったまま真菰の上に跪拝いた。(略)

 卑弥呼は臂に飾った釧の碧玉を松明に輝かせながら、再び戸の外へ出て行った。(略)そこには海螺と山蛤がひたしてあった。(略)やがて、数種の行器が若者の前に運ばれた。その中に野老と蘿蔔と朱実と粟とが入っていた。

 

 以上引用終わり。

 

 はい、いかがですか?漢字読めました?

 原作はルビがふってありますが、それでも、読めないというより、どいうものなんだか分かりません。

 要は神殿みたいなとこで甲骨占いやっていて、そこで卑弥呼が若者に当時の食事を与えた・・ということですね。

 

 万事が万事、こんな調子です。

 人の名前も、詞和郎とか反絵とか長羅とか、どうですか?読めないでしょう。

 でも面白かったです。

 

 卑弥呼の<エピソード0>みたいな話で、もともと邪馬台(この作品では「やまと」とルビをふっています!)にいなかった卑弥呼が、不弥(「うみ」)の国(おそらく九州北部??)から、運命に翻弄されどんどん東へ向かっていく話です。

 彼女がどのような運命で邪馬台(やまと)の姫になるか・・・・

 決して、強くはない卑弥呼像です。

 

 諸星大二郎が大好きな方なら、お勧め。

 私は一気読みしました。

 

 

 名作「機械」もメンタル的には興味深い。

 小林秀雄は「世人の語彙にはない言葉で書かれた倫理書」と評したとか(岩波解説p284 この解説は川端康成です)。

 この自己不確実感!

 「理性の限界」を描いたと一般的に考えられているそうです(彩流社解説p321)。

 もう少し、違った風に考えられそうで、宿題にします。

 

 ほかにも「第四人称」など、面白いアイデアをもっていたそうです(同解説p319)。

 

 

 

 で、調べると、横光利一、戦争協力をしてしまったのですね・・・

 だから戦後、かなり弾劾されたようです(すぐ亡くなっているけど)。

 ハイデガーや田辺元の思想と戦争協力の関係って研究が山ほどありますけど、横光利一はどうなのだろう・・・

 

 ちょっと調べてみたいと思います。

 全集・・・・14冊か・・・・

 

 

 

 

 

横光利一「セレナード」

2400円+税

彩流社 

ISBN 978-4-7791-2532-4

 

横光利一「日輪 春は馬車に乗って 他・八篇」

600円+税

岩波文庫

ISBN 4-00-310751-9