今日で仕事納めです。
とはいえ1月2日から仕事は始まるのですが。
あまり休むと呆けそうなのでちょうどいいということで。
先日、スターウォーズのエピソードなにか、たぶん9あたりを見ました。
高橋ヨシキさんか町山智浩さんあたりからの受け売りですが、ジョージ・ルーカスはもともとアート志向だったそうです。
大学の卒論で何かの映画の制作過程のドキュメンタリーを撮ることになった。
他の学生たちは、当たり前のようにスタッフの動きを撮っている。
ルーカスはどうしたか?
ロケ地の風景が時間帯によって雰囲気が変わっていくのを延々と撮っていたのだそうです(カッコいい!)。
なるほど。
スター・ウォーズもそういうところありますね。
あえて昔の活劇を「べた」に撮った。
ただ、そこに「新技術の撮影方法」でリアルさを取り入れた、実は新しい映画。
時代劇に置き換えれば、「水戸黄門」を照明もカット割りも音楽も全部、昔の「水戸黄門」風に撮るのだけど、登場人物たちの衣裳や言葉使い、立ち振る舞いの時代考証を物凄く厳密にして、たとえば地方の悪代官が土地の言葉で喋っていて、今の私たちには全然わかんなくてもあえて字幕をいれない。
で、風景もリアルにして武家屋敷でも中の畳や板の間も埃っぽかったりすすけていて、小道具類も何の目的で使っているのか分からないようなものを説明なしで持たせたり、刀の鞘も手垢なんかで汚れていたり・・・みたいな感じでしょうか。
それをCGなんかを駆使して最新技術で撮る。
確かに、ちょっとカッコいいかも。
話を戻すと、要はルーカスの求めているものは常に「新しい」ことでした。
だから、高橋ヨシキさんの本で読んだけど、新スターウォーズに対してルーカスが激怒したそうです。
といっても「これは俺のSWじゃない」ではないです。たぶん逆。
「これ、俺の今までのSWと同じじゃねーか」。
で、今回のスター・ウォーズを見ながら、私がずーっとぼんやりと考えていたこと。
もしもこの世界観を作り上げたジョージ・ルーカスが「新しい」ものを作っても、創造者が製作したのだから「正統」になる(ファンがあれこれ言っても。今は名作扱いのエピソード1公開時のネガティブな大騒ぎはどこへいったのか)。
ところが、後継者が「新しい」ものを作ると、「これはスター・ウォーズじゃねえ!」「監督も脚本家も何も分かってない」になりかねない(新スターウォーズの前作。もうエピソード・ナンバーがわかりません)。
なので、結局、ジョージ・ルーカスがやったこと、やりそうなことを繰り返さないと、たぶん周りからは「正統」とみなされない(今回のエピソード)。
ところがそうすると創始者のルーカスからは「俺の考えと違う」と言われてしまうという矛盾。
・・・・というか、映画に集中しろという話ですが。
さて、私の仕事の分野でもある理論体系を作り上げたパイオニアがいて、その弟子たちが「新しい」意見を提言することがあります。
そうすると、それはどこまでが創始者の体系の範囲内なのか(跡を継いでいることになるのか)、それともまったく逸脱して別ものになってしまっているのか?
先日、ヤスパースの研究会に行ってきました。
そこであるエライ方が「ヤスパースが言いたいことはそういうことなのか。確かにテクストをたどるとそうかもしれない。しかし、もしも、今、ヤスパースが生きていたら、それに(発表に)賛同するとは思えない」とご指摘なさり、激論になっていました。
ヤスパースは確かに講壇哲学者を批判したしhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12548713692.html?frm=theme、単なるテクスト解釈は批判するだろう、でも、ヤスパース自身も「大哲学者」シリーズを書いているし。
ヤスパースがいない以上、そういわれても困るだろうなあ檀上の先生方・・・・とぼんやりと考えていました。
フロイトにせよ、ラカンでもいいのですが、創始者のいる理論を勉強する(研究する)って、どういうことなのだろうといつも考えます。
本来は、理論よりも、その人の発想とか、考え方、見方とか、そういうものを学ぶべきだろうと思います。
もちろんそのためには、まず創始者の考えを追いかけるところから始める必要がある。それは、まずテクスト読解でしょう。
でも、ある程度、追いかけ、やがてうっすらでもいいので、創始者の見方や考え方が、なんとなく身につく(気がしてくる)と、「この考え方だと、こっちの道じゃなくて、あっちの道に行くのもありじゃないか?」という瞬間があるかもしれません。
その場合、創始者(の理論)からの逸脱になるのでしょうか?
仮に逸脱だとしても理論としてオリジナリティーがあれば価値はある。
しかし、多くの場合、端的に見当違いの大間違い、とんでもない妄想、すでに誰かがもっと精密な形で見つけている可能性が高いとも思います。
今までは「XX派」であることの嫌悪感(「そんなことはXXは言って無い」「お前はXXのことを分かってない」という不毛な議論への嫌悪感)しかなかったのですが、逸脱の苦しさ(「確かにXXはそう主張しなかった。でもXXの考え方から、こうも考えられる」と、孤独の中、嘲笑に耐えながら主張し続けること)にまで考えが至りませんでした。
創始者に心酔する、一方で単なるエピゴーネンにならないための綱渡り感。
頭では分かっていたのですが、今回のスター・ウォーズを見て、ようやく感覚的にわかりました。
てか、こんなこと、スター・ウォーズでわかるなよ、という感じですが。
私は抽象的に考えちゃう癖があるので、これくらい身近ですっごく夢中になったもので考えないとぴんとこないんです。
というわけで、来年もよろしくお願いいたします。