「見出された時」を読んでしまっているので、これがほぼ最終編。
とはいえ、「見出された時」は再読するつもり。
本作。
語りの内容だけだと「私」が<アルベルチーヌを愛していない>(Ⅰp18、21、31、33、43、92、154、201、Ⅱp302-303・・・略・・・)<愛している>(Ⅰp16、28、106-108、110-119、205、274-275、Ⅱp72、140、236、240、257、267、336・・・略)の往復と、アルベルチーヌへの嫉妬心が、ひたすら延々と描かれる<だけ>といってもいい。
特に第Ⅱ部はどうかしている構成で、前半200頁は延々とシャルリュス男爵とヴェルデュラン夫人の神経戦、後半140頁は延々「私」とアルベルチーヌの神経戦が描かれる。
粗筋は無いも同然なので触れません。
本作のテーマの一つが<嫉妬>。
第二編「スワンの恋」が(ほぼ)三人称で描かれたの対して本編は一人称。
なので、本作の方が嫉妬感情がいかに利己的か、読み手に伝わってきます。
嫉妬に関する「私」の考察も延々と続きます。
嫉妬は相手ではなく「行為を対象にする」(Ⅰp96)。
嫉妬で「いくら問うても答えるのは自分」だから、実際には「何も知ることができない」(Ⅰp134)。
え、分かっているじゃないですか・・・・。
嫉妬は相手の過去の出来事に基づく。
ところが「記憶は(略)事実の複製ではなく(略)虚無」で「死んだ思い出をよみがえらせ(略)るような虚無」であり、「制御できない」要素に満ちている(Ⅰp229 前のブログ↓でご紹介した文章です)
だから嫉妬は「あやふや」(同)。
え、分かっているじゃないですか・・・(その2)。
で、「私」は以下のような考察にたどり着きます。
「嫉妬は自分についての嫉妬でしかない」(Ⅱp288-289)。
自分が<若い娘に目がいってしまう>から<相手もそうしているに違いない>と考えてしまう。
え、分かっているじゃないですか・・・(その3)。
これって自分の中にある認めたくない点を相手に見ると・・・おおっと、メンタルヘルス業界で有名なアレです。
一方、アルベルチーヌ。
「私」はアルベルチーヌを嘘つきと決めつけますが、一人称の物語なので、読み手も<実際のところは分からない>。
「結婚できないだろうと暗い表情で笑う」(Ⅰp25)、「私」のちょっとした言動に「不安げ」(Ⅱp161-162)になる。
「私」は自身の「記憶は曖昧だ」と分かっているのに、アルベルチーヌの記憶や語りが曖昧だと一々疑い、問い詰める。
こういう態度をされると、誰でも不安になって発言がますます曖昧になりますよね。
読み手としての私は、まったく描かれない(描かれようがない)彼女の内面を想像して可哀そうに思ってしまいましたが・・・。
さて、「ソドムとゴモラ」で述べるつもりとされていた「汚された母」というテーマ。
本作で、このフレーズは出てこないのですが、確かに内容的にはそうかなと。
「私」は「母に話すように」アルベルチーヌに話しかける(Ⅰp125)。
「アルベルチーヌを恋人して(略)母として」いさせることはできないかと「私」は考える(Ⅰp175)。
要するに、アルベルチーヌ ≒ ママ(Ⅰp176)。
「眠れない」時に「キスをしてくれない」アルベルチーヌも、全編を通して「私」が想起してきた、母との悲しい、そしてたぶん大切な思い出と重なります(p313-316)。
アルベルチーヌへの濃厚なキスの後に、「私」は母親のことを思い出す(おおっと!Ⅰp14-15、p138)。
同様の記述で、心を静めるのは母のキスであり、同じく心を静めるのが恋愛であるという(Ⅰp122-123)。
もっと露骨なのは、アルベルチーヌと母への愛が重なるという記述の数行後、アルベルチーヌの身体の官能的描写になる(Ⅰp126)。
こ、これ、発禁ものでは!?
もう一点、キモ・・・・いえ、重要なのが眠っているアルベルチーヌへの「私」の恋情。
「私」にとって眠っているアルベルチーヌこそ美しい。
なぜなら、相手の「服従」の中、「純粋で非物質的」な愛情を感じるから(Ⅰp111)。
確かに眠っている相手は支配できる。
そして「私」は「非物体」と強弁していますが、そこにあるのは生々しい肉体=物体corpsです。
川端康成の「眠れる美女」の薄気味悪さに通じます。
一貫してマゾヒスティックに苦悩している「私」ですが、考えようによってはサディスティックでもある。
プルーストはサディズムとマゾヒズムが逆の関係にあるのではなく等価なのだと主張しているともいえる(と意図していたか不明)。
プルースト論って死ぬほどあるので、間違いなくどこかで指摘されているのでしょうが、私的には大発見だったこと。
アルベルチーヌと「私」が大喧嘩になるシーンで、彼女が着ていた部屋着。
青と金の鳥の柄で、裏地がバラ色とされている(Ⅱp304-305)。
おお!
第二編でジルベルトからもらったのは「青い」速達便。
そしてアルベルチーヌからもらったのは「金色」の鉛筆でした。
バラ色はもちろん第一編の「バラ色の夫人」、スワン夫人。
「私」が愛した人の要素満載。
ただし「青い」ものをくれたジルベルトは私から去った。
その直後のエピソード。
「青」という語が繰り返し出てくる頁が(p322 5か所。「青空」を含めると6か所)。
アルベルチーヌは飛行機を見つける。「ソドムとゴモラ」で飛行機を見つけた「私」はなぜか涙を流していた。
飛行機は二人から<離れて>いく。
ところで、オデットとスワン氏は結ばれました。
しかし「私」はそうではない(なさそう)。
スワン氏にあって「私」に欠けているのは何か。
「束の間の喜び」は何かを「私」は考える。
それは「安定し」「家族的ななごやかさ」「家族的なやさしさ」(Ⅰp93、106、123、274-276)である。
スワンとオデットの出会いのきっかけになった音楽を聴きながら、「私」は帰宅すればアルベルチーヌと「最愛の妻」のように会うだろうと考え、「家族的なくつろぎ」を想像するシーンがあります(Ⅱp72ー73)。
そうなのです。
「私のするべきこと」は「家に帰る」こと(Ⅱp201)。
あるいは何かを<決断>すること。
「私」は終盤、自分のことを「決断できない青年に過ぎない」と書いています(Ⅱp253)。
えー、分かっているじゃないですか・・・(その4)
しかし、これも<芸術を通して>考えているので現実にならない。
さらに、未成熟な「私」にはもう一つ欠けていることが。
諦められないことです。
「私」が繰り返し述べているのが、想像の方が現実よりも楽しいということでした(Ⅰp36、p41)。
本作でも「彼女を思う」と「そこにはいない」が「目の前にいると」「考えることができない」(Ⅰp110)という表現があります。
思考(想像)と存在(現実)が排除しあう。
表現をかえれば、現実ではない、つまり「未知」(Ⅰp42、120、266-269、Ⅱp272、286-287)のものが「私」に喜びを与える。
で、この未知が与える喜びを「私」は諦められない。
さらに不幸なことに、「私」は未知によって生じる喜び、興奮、つまり一種の心の動揺を、苦悩と結びつけてしまっており、しかも既知、つまり平静さを与えるものは愛と結びつかないと決めつけている点です。
「私」は嫉妬で「苦悩、心の動揺」(Ⅰp120-121)を感じるけれども、一方で「不安、動揺こそ愛」で「平静さ」は「愛するのをやめる」ことだと考えている(Ⅰp145-147、168)。
ややこしいですが、
未知 → 喜び、興奮 ≒ 心の動揺 (普通なら<トキメキ>ってやつですね) = 嫉妬(苦悩) → 愛
既知 → 安定、平静さ → 愛ではない
なのです、「私」にとっては。
だから、嫉妬を抱くことこそが愛している証拠だという、まあ、そういう一面もあるかもしれないけど極端じゃない?という倒錯した結論になる。
で、この背景にあるのはたぶん<ママ>問題。
「私」は「平静な愛」というものがあり、それは家庭的な愛情だと薄っすら分かっている。
でも、一生懸命、平静さと愛を切り離そうとしている。
なぜなら「私」は、平静さ、動揺、家庭的愛、官能的愛を区別できない状態だからです。
何しろアルベルチーヌ = ママなのだから。
最後に、プルーストの芸術論(ワグナー論、ドストエフスキー論)が面白かったです。
ざっくりまとめれば「自分自身に一致」し、「新たな風景を求めに行くこと」のでなく「別の目を持つこと」(Ⅱp80)。
そして優れた芸術は、重なりや平行関係、繰り返しがある(Ⅱp273-277)・・・・って、自分の作品じゃないですか。
あ、こんなことも。
「うんざりするのは、ドストエフスキーについて(略)書いたりする連中の仰々しさだよ」(Ⅱp280)
・・・・・はいはい、すいませんでしたね、プルーストさん、仰々しく書き散らかして。
はい、もう、やめます。
プルースト「囚われの女Ⅰ、Ⅱ」 鈴木道彦訳
4600円+税
ISBN 4-08-144009-3
4600円+税
ISBN 4-08-144010-7
集英社
Proust M: A La Recheche du Temps Perdu. La Prisonniere. 1923