ずっと買いたかったけど高い・・・と思っていた単行本が文庫本に。
早速、購入。
やっぱり、すっごい面白かったです。
いろいろ分からないともったいないので、ヴァレリーの「テスト氏」を復習してから本書を読み始めました。
「テスト氏」自体が哲学的で面白いのですが、やはり「自我に対する不信」を縷々述べているのだろうなあと読んでしまう。
たとえばp33でテスト氏に「わたしは自己という名の(略)並外れたことは大嫌いだ。そういうものは脆弱な精神の欲しがるものですよ」と言わせているし、絶筆部分の断片で「自己は個々の部分的支離滅裂」とヴァレリーは書いているからです(p143)。
そこに身体を持ってくる。
テーマで「勝ち」。
ヴァレリーは第一、第二、第三の身体があるという主張をしていて、仕事で必要そうだったので、以前、「カイエ」に収載されていたものを読みました。
が、あまり参考にならず・・・・。
しかし、本書で整理された身体論は素晴らしい。
本章は三部構成で、ヴァレリーの詩作(思索)にとって身体性がどのように重要だったかを解き明かすという内容。
ヴァレリーは自我の問題で論じられがち(p25、58-59、136-137、140-141)。
しかし、彼にとって詩とは何か、詩を読むとはいかなることかを考えることが喫緊の課題だった。
描写についての議論(p43-44)、主語や動詞に関する思索(p100-101 主語についてはプルーストが同じことを書いていました)、言葉が何かを人に伝えるとはどのような機序か(p108-113)が解き明かされ、そのいずれもが大変に興味深い。
特に言葉の伝達については、私が今考え中のこと、直球ど真ん中で、早く読んでおくべきだった。
さて、ヴァレリーにとって詩(を読む)とは何か。
伊藤先生の結論: 読者の身体を参加させること(p129)。
第一章の作品論だけで、私は得るものがたくさんありました。
第二章は時間。
ヴァレリーは時間が数値化されないものとして論じた(p150-151)。
これは時間批判あるある。
しかしヴァレリーは、時間体験の比較が不可能なことから時間そのものでなく、時間感覚を考えることにした。
感覚なので、私たちにとって時間は今しかない(今しか感覚を体験できない)。
そして、この今の体験の内容はスルーして形式に注目する(p152-153)。
で、時間の形式とは、私の言葉に直すと「前のめり感」。
私たちは普段、感覚器官を意識することはない。
ぼうと見ているときに目のことを考えない。
でも目に不調があると目のことを意識します(私なら老眼で文字が見えにくくなって、初めて「見る」ことを意識し、何か工夫するとか)。
同じく、出来事に突然の変化があると私たちの時間感覚は混乱し、その時に初めて時間を意識する(p162-167)。
同時にこれは<注意(力)>の問題でもある。
これらをヴァレリーはベルクソンとは違った意味で持続の問題としているのだそうです(p173-178)。
さらにリズムの問題(p73,179-205)もある。
ここ、私は同じようなことを苦労して考えていました・・・・早く読んどけばよかった(しつこい)。
解決できなかったことの答えもあったし。
リズムの節は、再読、味読します。
最終章。身体論。
ヴァレリーにとって「精神の身体」と名付けられるものがあり、それは「器官の存在を感じさせない体」(p232-233)。
逆にいうと、諸器官が何かのきっけかでうまく機能しなくなると、私たちは可能性の範囲内で活動し、バランスを戻そうとする(p238-244)。
その可能性の総体を「錯綜体Implexe」とヴァレリーは名付けた(p250-254)。
Implexe概念はフロイトをかなり意識していたそうですが(名前もKomplexと似ている)、フロイトと異なり衝動や欲動のような<力>ではない(p257-258)。
あくまでも<こういう行動ができる>という可能性の<リスト>のようなものをヴァレリーは想定していたらしい。
ここも面白い!
再度、ヴァレリーは詩を読むことをどう考えていたか?
「身体を参加させる」
つまり「行動する」こと・
そのためには「何かにひっかかり、うまく器官が機能しない必要がある」
ということは・・・・・
何度も読む価値のある名著。
伊藤亜紗「ヴァレリー 芸術と身体の哲学」
1260円+税
講談社学術文庫
ISBN 978-7-06-522382-6
ポール・ヴァレリー「ムッシュー・テスト」 清水徹訳
540円+税
岩波文庫
ISBN 4-00-325603-4
Valery P: Monsieur Teste. 1946