期待しないで読み始めた「ドルジェル伯の舞踏会」。
読み比べようと思ってバルザックの小説を図書館を借りてきていたのですが、疲れ果てて読めませんでした。
なぜか・・・
「ドルジェル伯の舞踏会」があまりにも面白かったからです!
下が図書館で借りてきたものの力尽きて放置状態のバルザックさんの本。連休中に読みます。
どうしたことでしょうか。
これが「肉体の悪魔」と同じ作者の小説か?というくらいに違う。
途中で冒頭に戻って読み返したりして、読了時にはぐったり・・・
短編(中編か?)なので、朝から読み始めて夕方には読み終わっていました(子供たちが留守だったし)。
で、過集中状態だったために、その後はしばらくぼーっとしていました。
冒頭からp85くらいまで、「本当に面白いの?」と懐疑的だったのですが、そこから読み終わるまであっという間でした。
最初はプルーストのパクりかという箇所が散見(オマージュ?)。
「習慣」がキーワード(p51)。
フランス語の文法的な誤用をわざと書く(p55)。
発音や言い回しへのこだわり(p81-82)。
しかし、主人公のフランソワくんが、列車の中である家族に出会うところから、一気に物語に引き込まれます(p91-94)。
階層に対する劣等感を取り繕うとして却ってある種の卑しさが滲み出ている母娘。
自分の感情に対して素直な素朴な父子。
そして、フランソワくんが父子に共感を抱くという描写があり、ここで読み手としてはフランソワくんに感情移入が完了。
その後にフランソワくんとドルジェル伯夫人それぞれのちょっとした言動、どうということのない逸話が、どんどん裏目になるという怒涛の展開になり本が置けなくなります。
本当にちょっとしたことの積み重ねです。
短い話なので、具体的にどのようなことかを書いてしまうと、これからお読みになる方の楽しみをそいでしまうので一部だけ。
フランソワくんのお母さん(といってもまだ37歳)が、夫人のことを「あれ以上、お嫁さんに適した人はいない」とおそらく一般論で独り言のように口をすべらしてしまう(p140)。
もうフランソワくんの気持ちが決まっている後にです。
こういう細かな、本来は特別な意味のないことが、特別な意味をもってしまうようなタイミングで繰り返されていく。
互いに己の気持ちに気が付き(相手の気持ちには気が付いていない)「まずい、どうにかしなければいけない」と苦しみながら、なんとか事態を穏便に収めようとする。
しかし、事態は真逆に進む。
さらにこの小説が素晴らしいのが、ただの偶然の出来事の積み重ねではなく、それぞれの気質と出来事が絡んでいることです。
フランソワくんは寡黙(p74)で老人受けのいい好青年(p71-74)。
ドルジェル伯夫人も余計なことは話さない、ちょっとぼうっとしたところのある冷たい印象の美人さん(p30)。
一方のドルジェル伯は、人はいいけど非常に軽薄な男。
フランソワくんも夫人も、性格的に不道徳な事態は避けたいと考えている(そこが私的には健気に感じて、頑張れ!と応援したくなる)。
しかし、幼さ(二人とも20歳前後くらい)ゆえの鈍感さ(p74、p126、p143-144、p167)、あるいは問題を見ないようにして先送りする稚拙さが二人に、特に夫人にある(p147、p184-185)。
軽薄なドルジェル伯はその妙な社交性ゆえに却って二人を近づける役目を果たしてしまう。
そして、鍵となるフランソワくんのお母さんが素直ではない頑固さで問題を複雑化(p201-203)。
ラスト。
複数の解釈が可能。
これもいい。
あとこの小説、解説でも触れられていますが、いくつかのレイヤーを持っているように読める。
私はフランソワくんとお母さんの関係がどうかなと気になりました。
お読みになった皆さんのご意見、ぜひ伺いたいです。
それと、一体、どこからフランソワくんは夫人に愛情を抱き始めたかを考えるのも面白い。
解説では「他人の欲望」に煽られるのが欲望の構造だというルネ・ジラールの議論をもってきています(精神分析ではおなじみラカンのあの論法)(解説p284-289)。
フランソワくんがいることでドルジェル伯が夫人を「本気で愛し始めていた」という文章があるからです(p109)。
同じようにフランソワくんも、ドルジェル伯と夫人の仲睦まじい様子を見て、夫人への愛を駆動させてしまったのではないかと。
私は違うのではないかと思います。
似ている文章で「彼(ドルジェル伯)には妻がふだんよりもっと趣のある女に思えた。まるで他人の妻を見ているような感じだった」という箇所があります(p77)。
ここはフランソワくんが奥さんと楽しそうに話しているの見た直後の文章で、確かにフランソワくんの夫人への欲望に煽られて、自身の欲望が賦活されたかのように読めます。
でも、その前のシーン。
いつも社交的で会話の中心にいないと我慢でできないドルジェル伯が、フランソワくんと夫人が会話しているのを「生まれて初めて観客の立場に身を置いた」となっている。
なぜかというと「会話の内容には興味がなかった」からとさらりと書かれています。
でも、その後の仮面舞踏会での振る舞いを考えて、ドルジェル伯がただ黙って眺めているのはおかしい。
ここで彼がどう考えているかが明確に描かれていない(または彼自身に自覚がない?)のですが、私はドルジェル伯が嫉妬していたに違いないと思います。
先の文章に戻ると「本気で愛し始めていた」の後、「あたかも妻の真価を知るには、他人の欲望が必要であるかのように」となっています。
「あたかも~ように」で「必要だった」ではないです(p112で同じシーンを繰り返し説明して「あたかも彼女が自分の妻ではないかのように」ともあります)。
ここもドルジェル伯ははっきり自覚している様子はないですが、二人に嫉妬しているのだと私は思います。
だから「本気で愛し始めていた」は、正確には「本気で愛さないと奪われてしまうと思い始めていた」なのではないかと愚考します。
その先、フランソワが夫婦と別の場所にヴァカンスに出かけることになって駅で送りだすシーン。
ここでのドルジェル伯は「完全によそもの」で、ラディゲはわざわざ「ちなみに」とつけてドルジェル伯は「気づかないほどわずかに顔の向きを変えていた」という文章を加えています(p162)。
ということで、欲望は欲望を産むということをラディゲは書いているのではないと思います。
もしそういう構造があるとすれば、欲望そのものの性質ではない。
むしろ、嫉妬(という特殊な欲望)の構造なのではないでしょうか。
話を戻して、フランソワくんがいつ夫人を意識したか。
ここは解説の渋谷先生と同意見です。
仲睦まじいカップルをみると普段は嫉妬を抱き(相手の女性を?)愛し始めるというフランソワくんが、仲良く踊るドルジェル伯夫婦を「見ていて気持ちがいい」という「不思議な感情に捉われる」(p52)。
<いつもと違う>時点で、夫人が<今までの女性とは違う特別な存在>になっているということではないですか。
これ、その前に、フランソワくんがドルジェル伯のことを好人物だと思ったという描写が挟まっているので、フランソワくんが<いい奴とその奥さんの仲の良さを微笑ましく眺めている>と読み手をミスリードする描き方をしているのだと思います。
夫人は夫人で、踊りの後に自分の席に戻った時に、下品なアメリカ人のいたずらに妙に動揺したりして、おそらくこの時点でフランソワくんのことを意識しているのだと思います(p56-57)。
で、繰り返しになりますがフランソワくんは「欲望が欲望を駆動する」というルネ・ジラール理論のように夫人を愛し始めたのではないと思います。
だって、普段のおそらく「何とも思っていない女性」に対しては男と仲睦まじくしていると自分に振り向かせたいと思うのに、「本当の意味で特別な女性」に対しては逆になっているではないですか。
真の欲望は、<欲望を欲望する構造>(ややこしいですね、ラカン・・・あ、ルネ・ジラールは、どうしてこういう書き方するかな。<隣の芝生は青い>じゃダメですか?あ、ダメですね。すいません)ではないのではないでしょうか。
本当の欲望は、素直に生じる。
列車の中の父と子のように素直な感情の発露こそ尊い。
他者の視線を意識した母娘の振る舞いが卑しいのと対照的に。
いや、本当に名作です。
これはめちゃくちゃ面白かった。
おすすめです(でも「肉体の悪魔」は・・・・・)。
レーモン・ラディゲ「ドルジェル伯の舞踏会」 渋谷豊訳
840円+税
光文社古典新訳文庫
ISBN 978-4-334-75399-3
Radiguet R: Le Bal du Comte D'Orgel. 1924