一般的に日本人は「おとなしい」とされ、海外で暴動があっても日本人は「こういうことはしない」などと言われます。

 とはいえ、日本には立派に「一揆」「米騒動」があったし、ジブリ映画「風立ちぬ」や大河ドラマ「いだてん」で描かれた関東大震災での悲劇もあった。

 

 

 というわけで、なんとなく手にとった本書ですが非常に興味深い内容でした。

 また、記述方法や研究の構えが私的には仕事とつながる気がして参考になりました。

 

 

 本書は幕末~大正、つまり近世から近代にかけての「一揆」「暴動」についての変遷についての研究です。

 実は男性学(?)的視点も少し入っています。

 

 まず序文のマックス・ウェーバーの近代国家の定義に驚きます。

 「ある一定の領域(略)のなかで(法などに基づく)物理的暴力行使の独占を要求する(略)共同体」(p3)

 驚いた後に、驚いた自分に驚きました。

 ああ、骨の髄まで平和に慣れきってしまっている。

 

 人々と隣り合わせで生活するということは、どこかでお互いに権利を侵害しあっている(私は誰かの権利を侵害し、誰かも私の権利を制限している)。

 で、どうしても折り合いがつかなくなれば、そこに暴力が発動することはあるわけですね。

 

 卑近なところで、昨日、子ども2とこども3がニンテンドースイッチの使用権をめぐって、物理的暴力を発動(=兄弟喧嘩)していました。

 

 しかし、各自が勝手に物理的暴力を行使する権利を主張すると「マッド・マックス」か「北斗の拳」(←古い・・)のようなカオスの世界にしかならない。

 なので国家がすべて<代行>する。法という名のもとで。 

 それは必要悪でしょう。

 

 

 本書に戻って、まず「一揆」。

 なんと一揆に作法があった(!p8-9)

 一揆は相手に要求を届けるための最終手段であり、そのためには礼節をもって行動しなければ「そもそも聞いてもらえない」という庶民の知恵があったのでしょう。

 

 ところが幕末に徐々に暴力化(p17-20)。

 藤野先生は明記されていませんが、おそらく相手の抽象度が高まるほど暴力的になったのではないかと思います。

 一揆は「領主」(p17)に対して行った。おそらく普段から顔見知りですよね。

 しかし、幕末になると「上層」「都市部の豪商」(p17)となる。たぶん顔の見える関係ではなかったのだろうと思います。

 そうなると、暴力的になってくるのは(物理的でなく、言葉でも考え方でも)、現在の私たちだって同じではないでしょうか。

 

 明治期。

 海外に門戸を開いたことで<日本人以外の人>と、身分制の崩壊で<それまでと逢う機会の少なかった人>との接点が増える。

 その結果、様々な噂が流れて社会不安が強まる(p36-38、46-54)。

 さらに経済構造の変化で、それまでの基幹産業が斜陽になる(p69-74)。

 また江戸時代の経済的慣行、私の言葉なら<お互い様>な考え方が西洋化し、再度私の言葉になりますが<血も涙もない>ものに変貌し(p80-81)、不満が蓄積。

 結果、騒乱に。 

 

 

 で、西洋列強から恥ずかしくない国家として認めてもらうのに必死だった明治政府は、このみっともない騒乱を常備化した軍隊で強引に鎮圧(p87)。

 が、却って反作用的に騒乱は過激化(p88-90)。

 わずか14-5年程度の差なのに、幕末の一揆と全く異なったものになっています。

 

 

 後半は、日比谷焼き討ち事件、そして関東大震災の虐殺です。

 

 日比谷の箇所で面白かったのが、戦争によってジャーナリズムが発展したという記述(p99)。

 先日、読んだプルーストの第一次世界大戦下を想起させます。

 

 

 で、このジャーナリズムの発展。

 これも個人的な意見ですが、世の中を<抽象的>にみることを加速したのではないか。

 だって目の前に<ない>ことについて、制限された情報であれこれ論じるわけですから。

 その結果、またもや不満が強まっていく。

 

 興味深いのが事件発生までの経緯です(p107-116)。

 私は、日比谷焼き討ち事件が「何も得をしなかった講話条約締結への反対運動から始まった」と日本史で習いました。

 

 確かに当時の新聞は条約反対と書きたて、事件の契機となる集会を開いた人物もそういう思想だった。

 ところが当時の新聞の投書やいくつかの記録では、庶民の間では厭戦気分がかなり広まっていたと藤野先生は指摘なさいます。

 つまり、この焼き討ち事件。

 「まだ戦争しろ」という人と「戦争なんてもういやだ」という人が一緒になって行動した(!!)。

 要は政府への不満だけが一致していた。

 

 さて藤野先生はこの背景に、都市に流入した男たちの立場の変化を指摘なさいます。

 かつて農村部の長男以外の男は都市部に出て丁稚奉公をし、やがて暖簾分けしてもらい自分の店をもつことが目標だった。

 ところが近代化で都市部の男は工場労働力として囲われ、しかもこの新しい立場は当時の価値観では<うだつの上がらない者>と見なされていた(p118-126)。

 この移行期の混乱で、自分は<役立たず>でないことを証明しなければならない、その反動として<過剰な男らしさ=暴力性>をひけらかすことが都市部の男たちの生き方になってしまったと、藤野先生は当時の記録から指摘なさっています(p127-129)。

 なるほどなあ。

 なんだか、悲しいです。

 

 

 最後、関東大震災時の出来事(第4章と第5章)。

 読むのがつらかったです。

 これは、ご自身で、ぜひご一読を。

 

 当時(<後から出た>ではない)の目撃証言がかなり残っているので言い訳はできません。

 またその方法の凄惨さから、こういう記載が出ると「日本人はそういう加害行為はしない」「日本人ではない者が日本人のふりをした or 日本人と誤認されたのだ」というご意見をおっしゃる方がいらっしゃる。

 まま、そういう可能性を頭から否定はしません。

 でもですね、たとえば新選組の拷問の凄惨さ、私のご先祖さま(私は薩摩出身)が会津で行った、本当に申し訳ないことの記録を読むと、かなりひどいことを日本人だってしています(「そういうヤツは日本人でない。XXから来たんだ」とおっしゃる方。えー、私としてはもう反論しません)。

 さらに当時の日本人なら、そのような行為をしたものが日本人かどうかは、興奮状態でつい出る発音や母国語で分かったことでしょう。

 日本人だって「血が酩酊」すれば(=異常な状況下で異様な興奮状態になれば)、ひどいことをするということです。

 

 ただこの事件についての藤野先生の分析も興味深い。

 複合的であろうと。

 

 震災前に三・一運動があり、その鎮圧を日本は経験していた(p151-153)。

 震災時、その鎮圧に関わった政治家が治安担当だった(p153-154)。

 その結果、政府が誤情報を流してしまい、警察や軍隊の行動から「本当のことらしい」と庶民の恐怖感を煽ってしまった(p142-146)。

 さらに、仕事を奪われているという日常的不満(p179)が燻っていた。

 加えて先の男性性の回復心性なども働いた(p187-188)。

 

 せめてもの救いは、逆にかくまった方々いらしたことです(p201-203)。

 

 

 

 ちょうど、ハンナ・アーレントの映画を再見したところでした。

 「悪は凡庸」である。

 ということは誰もが悪をなしえるということです。

 

 本書は決してかつての日本の話ではないと思います。

 同時に他人事でもない。

 「この私」の問題でもあります。

 

 万が一、非常時の混乱を経験せざるを得なくなった時、私は過剰に暴力的にならずにいられるでしょうか。

 

 そうありたいものです。

 

 

 

 

 

藤野裕子「民衆暴力 一揆・暴動・虐殺の日本近代」

820円+税

中公新書

ISBN 978-4-12-102605-7