艱難辛苦の末に、ようやく読み終わりました。

 おめでとう!おれ!

 誰も褒めてくれないから、自分で褒めるぞ。

 エライぞ!おれ!

 

 これで、しばらくヤスパースさんとお別れ。

 丸々、1年間のお付き合いでした・・・・。

 でも達成感とかない、寂しいです。

 なんだこの感情。

 自分でもわからないです。

 

 

 ヤスパースの著作は、目次だけみるとどの時代の著作も「同じことを言っている」ようですが、実際には異なることがよくわかりました。

 本書「哲学」ではヤスパースの問題意識の列挙で終わっている印象で、さらっと読んだ程度の「真理について」以後では、もっと具体的で議論が深まっているように思います。

 

 とはいえ、本書で初めて展開された彼の基本的な思想には、やはり強い共感をおぼえました。

 哲学とは「認識」「知」を身につけることではない。

 いかに生きるかを問題にし、その上でいかに行動するかを考える、その<補完>として哲学はあるので、なんらかの教義ではないということです。

 もともと精神科医だった彼らしい発想だし、純正哲学者でなかったからこそできたことなのでしょう(と本人も自伝に書いています)。

 

 

 さて私はいわゆる「ヤスパース研究者」ではないので、ここからいったんヤスパースさんから離れて次のステップに。

 本業と関係する課題を4つは見つけたので、次はカッシーラ、リップス、あるいはクラーゲス、思い切ってスコトゥスまでジャンプするか。

 

 しっかりとまとめたら、次に行こう!

 ああ、楽しみ!!

 

 

 そうそう、ヤスパースのために読み始め、いったん放置プレイされていたカントさんを最後まで読まないと・・・ 

 でも目的は達しているのですが。

 放置プレイだった可哀そうなカントさん。あと2冊で読み終わるのに。

 

 ヤスパースとカントのアンチノミーの違いを知りたかったのです。

 あとヤスパースの元ネタだから用語が重なるし。

 実際に読んでみて意外だったのが、カントさんはライプニッツとニュートン(!)に対する反論という形で議論を展開していたのですね。

 科学と哲学が分離していなかった時代の雰囲気がよくわかりました。

 

 で、アンチノミーについて。

 カントさん。

 「理性」:経験に基づかずに抽象的に考えること、たとえば<神はいるのか><宇宙に始まりはあるのか>などを考えると、どうやっても行き止まりにはまる、というか肯定も否定もできてしまう。

 これがカントさんのアンチノミー・・・というのが雑駁な私なりのまとめ(← 正確には哲学者の方のブログなどをどうぞ)。

 で、このように理性の限界について論じているから、タイトルが「(純粋)理性批判」。

 

 ヤスパースさん。

 もっと具体的で、たとえば「死の不安から逃げる」「でも逃げられない(逃げ切れない)」という、いくら考えても答えがない(悟性とか理性とか分けない)行き止まりがあるという意味。

 カントさんと違って、論理的に肯定も否定もできてしまう=答えがないという意味ではない。

 そもそも論理的に考えられない「思考の向こう側」があるよねという意味。

 

 でも、ヤスパースはアンチノミーで止まらない。

 科学的な答えや宗教思想などでアンチノミーに蓋をせず、答えがないという不安に耐えて日々を生きていくこと。

 これが<私が私になる>ことであり、Gelassenheit(邦訳では<平静>。でもこれも再考が必要。安心Ruheとどう違うのか?)に至ると考えた。

 読んでいて、なんだか勇気をもらえました。

 

   

 

 

  

 

武藤光朗訳:「哲学的世界定位 哲学Ⅰ」

草薙正夫、信太正三訳:「実存開明 哲学Ⅱ」

鈴木三郎訳:「形而上学 哲学Ⅲ」

創文社  1964~1969

  

Jaspers K: Philosophie,  1932