あまり墨田区界隈を歩いたことはないのですが、本書を読むと訪れたくなります。

 ただ、空襲で一番焼けたのがあの辺りでしょうから、荷風の知っていた場所と雰囲気はだいぶ違っているでしょう。

 本作の舞台は、今なら、浅草寺前からスカイツリーの北辺りまでです。

 

 

 私の通っていた高校は東京の西部に位置し、空襲を免れたのだそうです。

 そのためか、かつてあぜ道だったのだろうと思わせるゆるやかな曲線を描く、奇妙に狭い道が多くありました。

 荷風ほどではないですが、私も知らない街中をうろつくのが好きです。


 

 

 

 

 さて、本作。

 <私娼の話>という余計な前知識で、まったく誤解していました。

 やはり、本はきちんと読まないといけませんね。

 

 

 筋は、毎度のことですが、大した話ではない。

 それよりも文章です。

 これが美しい。

 

 韜晦な表現、一読して理解しがたい文章は一つもない。

 むしろ単純といってもいいくらいに明快です。

 一文が無駄に長くない。

 接続詞を入れて、文章を入れ子構造にすることをしない。

 さらに単語や文章を羅列することもしない。

 一方で使われる言葉が古風で、全体に品格のある文章になっています。

 たとえば「夥多」「矜負」「懶婦」「悍婦」「擱く」「瑟々たる」「喬木」など。

 私は辞書片手に意味を調べながら読みました。

 

 思ったのは、荷風の文章はそのまま外国語に翻訳できるのではないかということです。

 荷風はフランスに行っているので、フランス語にできるでしょうか?

 それくらい、文章の内容にも構造にも芯があって曖昧さがない。

 

 荷風は古典に親しむ風なので、和の人の印象があります。

 しかし、私の考えでは、文章は完全に洋の人です。

 

 

 

 本作に底流しているのは、かつての東京への懐古です。

 冒頭から入谷の<古>本屋を訪れるところから始まる。

 古本屋の店主まで<古い>(江戸っ子気質を残した老人)。

 そこでの対話も、当然、明治時代の<古>書についてです(p12-13)。

 主人公の作家はある作品の構想を練っている(p24)。

 その作品自体が、どこか本書を思わせるので、小説としては入れ子構造のようになっています(第四節が、その作品の一節になっている)。

 

 初めてお雪さんと出会うシーン。

 梅雨時から始まるので、強い雨の中、二人で相傘になります(p37)。

 その時のお雪さん。

 「女は傘の柄につかまり、片手の浴衣の裾を思うさままくりあげた」

 登場場面から、彼女の性質がわかる。そして、どことなく艶っぽい。

 

 お雪さん、だからといってそれこそ懶婦ではない。

 家の中は片づいている(p41)。

 誰かが訪れたことが分かるようにでしょうが、簾にリボンで鈴が付いている(p39)のも可愛らしいし、気が利いている。

 客が大声で呼ぶという無粋なことをしなくてすむ。

 その一方で、「わたし、今の中(うち)に御飯たべてしまうから」と出てくるのは、大盛の沢庵漬けと芋煮(p48)。

 貧しさもあるのでしょうが、無駄なこだわりがない。

 それにちょっとお茶目さを感じます。

 

 お雪さんは髪型も服装も洋装ではない。

 そして住んでいる地域も「大正開拓期を思わせる」場所(p72)で、だからこそ主人公はつい訪れたくなるという。

 そこかしこにある<古さ>への懐かしさ。

 

 

 

 私がもっとも好きな場面(p87-92)。

 お雪さんの一言目は大変な台詞です。ところが、その後に続く対話はあまりにも日常的。

 ここは本作でもっとも重要な場面かもしれませんので、詳しくは書きません。

 ぜひ、ご自身でお読みください。

 最後の部分だけ紹介します。

 以下、引用(p92)。

 

 「あなた。髪結さんの帰り・・・・もう三月になるわネエ」

 わたくしの耳にはこの「三月になるわネエ」と少し引き延ばしたネエの声が何やら遠いむかしを思返すとでもいうように無限の情を含んだように聞きなされた。「三月になります」とか「なるわよ」とか言い切ったら平常(つね)の談話に聞こえたのであろうが、ネエと長く引いた声は詠嘆の音(おん)というよりも、むしろそれとなくわたくしの返事を促すために遣われたもののようにも思われたので、わたくしは「そう・・・・・」と答えかけた言葉さえ飲み込んでしまって、ただ目容(まなざし)で応答した。

 

 以上、引用終わり。

 この言葉にならない駆け引き。これは和だと思います。

 しかも、荷風、この箇所だけ想いがこみあげているのか、珍しく一文が長い。

 だからこそ印象に残ります。

 

 

 荷風、あ、主人公が身を引いた理由もいい。

 以下、引用(p126)。

 

 わたくしは若い時から脂粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない。或時は事情に捉われて、彼女(かのおんな)たちの望むがまま家に納(い)れて簣帚(きそう)を把(と)らせたこともあったが、しかしそれは皆失敗に終わった。彼女たちは一たびその境遇を替え、その身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教うべからずして懶婦(らんぷ)となるか、しからざれば制御しがたい悍婦(かんぷ)になってしまうからであった。

 

 以上、引用終わり。

 私娼が妻という公に認知される立場になった瞬間から、口うるさくなり、だらしのない本性を表すことを目の当たりにしてきた主人公。というか、荷風。

 お雪さんはお雪さんのままの美風を残してやりたい、その力は自分にはないと思い、身を引くことにしたのでしょう。

 

 いかがでしょうか。

 文章は明晰で曖昧さがない。

 洋です。

 しかし、余計なことまで言葉にしない、自己主張し過ぎない慎みが描かれている。

 和ではないでしょうか。

 

 

 

 本は読むべきタイミングがあると思います。

 私はこの本を「今」読んでよかったと思います。

 

 若い時分に読んでも、面白いと思わなかったでしょう。

 読み方も粗雑でしたし。

 

 

 

 最後に落ち葉ひろい。

 

 「わたくしは学殖なきを憂うる。常識なきを憂えない。天下は常識に富める人の多きに堪えない」(p171)

 

 あからさまにこんなこと言ったら、嫌われそうだから内心思っておくことにします。

 ・・・もっと嫌味か。

 

 

 次は気に入った表現。

 

 鴻雁は空を行く時列をつくっておのれを護ることに努めているが、鶯は幽谷を出でて喬木に遷らんとする時、群もなさず列もつくらない。しかもなお鴻雁は猟者の砲火を逃るることができないではないか。結社は必ずしも身を守る道とは言えない。(p167)

 

 高校生の頃にこの一文を知っていたら、自分のことを鶯に譬える傲慢な野郎になっていたかもしれません。

 

 

 最後。

 明治生まれ、もしくは幕末に生まれて明治育ちと、大正生まれ、もしくは明治生まれの大正育ちの違いについて論じているところです。

 いいですか、大正生まれ、育ちですからね。

 

 (略)現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている―その心持です。優越を感じたいと思っている慾望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。(p176)

 

 富国強兵政策をとり、身分制度の崩壊で階級が流動的になった明治時代を考えると、この台詞は話半分に読んだ方がいいでしょう。

 これをご紹介したのは、いつの時代でも若い人は優劣を競い、年寄はそれを憂うのだなと思ったからです。

 

 

 

 そう。

 もう、私も年寄なんですね。

 

 

 

 

永井荷風「濹東綺譚」  

350円+税

岩波文庫

ISBN 4-00-310415-3