週末は仕事でくたくたでした。
私が尊敬している後輩の一人が参加してくれたのが救いでした。
もう一つの救いが日曜日に。
そう。
「やられたら、やり返す・・・・・・・おもてなしだ!」
えーと、これはナイツのネタでしたね。
「やられたら、やり返す・・・・・・・・八つ当たりだ!」
えーと、これは「リーガル・ハイ」のセカンド・シーズンのネタでした。
本当は、えー、皆様、ご唱和ください
・・・・・・・
はい、その通りです。
普段テレビでは見ない舞台系の俳優さん。
現代劇だとこんな感じかぁの歌舞伎俳優さんが大活躍。
やはり、ドラマは台本と役者さんですね。
私があまりに熱心に見ているので、子供たちも隣で訳もわからず見ています。
で、各自、持ちネタが。
私は中車さんの大袈裟なのに棒読みという奇跡の「ええ?こまりましたねぇー、半沢君」の大和田常務。
子供1はメリハリのある「やるのですか?やらないのですか?・・・・・・どっちなんだぁー!!」の半沢。
子ども2は愛之助さんの楽しそうな「あ~ら、おひしぶり・ねっ。な・お・き。おいたしてたんじゃないの~」の黒崎。
こども3は歯を食いしばって「はーんざーわぁー」の猿之助さん(役名忘れました)。
おでかけの車内で退屈すると一斉に真似が始まるので、うるさいです。
まま、今は「半沢直樹」についてあちこちで書かれているし、時間がたったら原作と比べてブログに書こうかなあと思います。
さて本書。
私的には「七年戦争」か「音楽の捧げもの」のフリードリッヒ大王(二世)のところに、なんとヴォルテールが寄宿(?)していた。
知りませんでした。
で、そのことについてのエッセイのような小説のようなものが本書。
気軽に読める文章で、すぐに読み終わります。
歴史好きだけど、そんなにマニアックにご存じないのであれば本書はお勧めです。
でも「フリードリッヒのところにヴォルテールがいた?そんなこと知っているよ」という方には、お勧めできないかもしれません。
私は前者だったので、楽しめました。
ただ、帯にある「爆笑の連続」は・・・・んー。
私は「へー」はありましたが、爆笑はしませんでした。
まず知らなかったのですがヴォルテールって本名じゃなかったのですね。
本名は「フランソワ・マリー・アルエ」(p15)
なんで本名を名乗らなかったのですかね。いつか調べます。
で、ヴォルテール。
若きフリードリッヒ王子は文化を好み、何度もヴォルテールに書簡を送る(p29-49)。
王子はマキャベリズムを嫌い、文化的な文物に取り囲まれ、魅力的な若い男性を多く従えていた(性的嗜好はあちら好みだった p24-26)。
ヴォルテールは繰り返し送られてくる<ラブ・レター>に応えて、とうとうプロイセン行きを決意(p50)。
しかし、王に即位したフリードリッヒ。
王子時代と一転し、戦争に明け暮れる政策をとり始める。
徐々にヴォルテールとの間に緊張が(p56-80)。
そして、我慢できなくなったヴォルテールはフランスへ(p81)。
しかし、フリードリッヒ、やっぱりヴォルテールを呼び寄せたい。
とはいうものの、ヴォルテールの筋を通そうとする態度にふりまわされ・・・・・。
最後は、どうぞお読みください。
本書で意外だったのが、私にとって高校の頃から英雄のフリードリッヒ大王より、よっぽどヴォルテールの方が権威をもろともしない<漢>だったことです(p15-17、110-116、122-133、135)。
あとヴォルテールの愛人、エミリー・ド・シャトレ―。
知れば知るほど、私の理想の女性像です。
で、興味を惹かれて、ついでに「カンディード」も読むことにして購入。
うーん、「試練を乗り越える」にしても、あまりにもグロテスク。
終わりの無い戦争。殺人。略奪。詐欺。不倫。偽善。女性への乱暴。人肉食まで(!!)なんでもあり。
繰り返される宗教批判。ヨーロッパ文化あるは政治状況への諦念(p137-199 特に第二十五章は、ラファエロなどの絵画、オペラ、ミルトンの「失楽園」への当てこすり、ギリシャ文明、ホメロス、ホラティウス、キケロに対する罵詈雑言。逆に南米奥地にこそ<理想郷>があるという設定:第十七、十八章)
てか、バーンスタインはなんでこれをオペラ(?ミュージカル??)にしようと思ったんだ?
本書は副題からして、ライプニッツの最善説への攻撃が意図されているようです(p141、214)。
物語の中でも、「すべて、最善の目的がある」「すべてあるものが正しい」(p9)「自由と必然は両立する」(p35)などの言葉が出てきます。
そしてそれらの言葉を皮肉るように、これでもかというくらい執拗に理不尽な出来事が訪れる。
ところで、さっきの「最善」「すべてに目的がある」「自然と必然の両立」、確かに「モナドロジー」55節:最善のものが現実存在している(岩波文庫 p51)、32節:充足理由の原理(岩波文庫 p33)、83節:おのおのの精神は小さな神のようなものである(岩波文庫 p69)と書かれています(まだ「モナドロジー」は読んでいる最中だし、ほかの著作も読まないとダメなんでしょうけど)。
さて、最後のシーン。
詳細はお読みいただくとして、どう考えるかです。
一般的に「庭の教訓」とされているそうな(解説p278)。
物語中にも出てくるリスボン大地震を経て、ヴォルテールはライプニッツの最善説を疑った。
それに対して<個々の例で悪があっても全体として善である>と最善説を擁護したのがルソーだった(解説p271)。
本書はそのルソーへのアンサー・ブックなのだそうです(解説p276)。
これまでの「庭の教訓」の解釈は、「形而上学より行動」「隠遁生活への希望」「畑(庭)=エデンの園への回帰」(p278)「労働の意義」(p279)などだそうです。
ちなみに解説の渡名喜先生は「自然との対話」とお考えのようです(p282)
私は「形而上学より行動」説をとりますが、もう一歩、ヴォルテールは踏み込んでいると思います。
最善説は「結果」についての議論ですよね。
モナドロジーの55節は「今、現にあるもの」が最善だと書いてあります。なにしろ、神(というかモナド)が創造した(モナドで構成されている)のですから。
しかし、これは「ありつつあるもの」や「これからあるだろうもの」の議論ではない(と思います。「モナドロジー」の後半は未読なので間違っていたらすいません)。
ヴォルテールが本書で言いたかったのは、「結果」が最善に至るかは分からない、てか、最善でないことばかりかもしれない。
でも、最善な結果になることを信じて、一つ一つの行動や判断で最善と考える「選択」を行えばいいのではないかということではないかと愚考します。
カンディードはあまりにも多くの悪を見て、結果としての「最善」は得られなかった(綺麗だったクネゴンデはあんなことに・・・)。
でも、今、カンディードにできること、あるいはすべきことは、生きていくために必要な食べものを作ることを始めることなのではないか。
そして、それが「最善」な選択なのではないか。
今、すでにあるものは「最善」でないものばかりだ。しかし、それはいわば過去のものだ。
私たちは、未来に向かって「最善」に至る努力はできる。
それは、われわれの自由意志であり、神や宗教を必要としないし「予定調和」でもない。どうなるか分からないのだから。
そのような最善説ならオレは認めるよ、ライプニッツの最善説には反対だけどね・・・・・
ヴォルテールの言いたかったことは、そういうことかなあと妄想します。
で、話は冒頭と「ヴォルテール参上」に戻ります。
ヴォルテールの漢っぷりについて。
解説を読んで腑に落ちました。
ヴォルテールの座右の銘:「卑劣な奴をたたきつぶせ」(解説p252)
おお、まさに半沢精神ではないですか。
権威をものともせず、自分の尊厳を傷つけられれば決闘も辞さない(「ヴォルテール参上」p16-17)。
思想家というと、なんだか頭でっかちで弱々しい人物を思い浮かべますが、なんともカッコいいです。
どなたか、ヴォルテールを主人公にして、理不尽な要求を突き付けてくる国王や貴族たちに一泡吹かせる小説を書いてください。
決め台詞は、「卑劣な奴は叩き潰す・・・・・・・・寛容だ!」で。 (えーと、矛盾してますがスルーで。<寛容>については検索してください)
ハンス=ヨアヒム・シエートリヒ「ヴォルテール、ただいま参上!」 松永美穂訳
1600円+税
新潮クレスト・ブックス
ISBN 978-4-10-590117-2
Schaedlich HJ: ”SIRE, ICH EILE....” Voltaire bei Friedrich Ⅱ Rowohlt, Hamgrugm, 2012
ヴォルテール「カンディード」 斉藤悦則訳
980円+税
光文社古典新訳文庫
ISBN 978-4-334-75319-1
Voltaire: Candide 1756