フロイトは「わしは女性のことは分からん」と、女性性を<暗黒大陸>に譬えました。

 先日、読み終わった「アーレント=ハイデガー往復書簡」。

 ボンクラな私には、やっぱり女性性は「闇の奥」です。

 

 

 

 ハイデガーは助教授時代、入学したてのハンナ・アーレント(19歳くらい)と恋におちてしまった。

 当時のハイデガーは「存在と時間」執筆中で、知る人ぞ知るバリバリの少壮学者。

 しかし、ハイデガーには妻子がいた。

 

この頃、おそらく20歳代半ばから後半と思われる。

私が一番美しいと思うアーレントの写真。

 

 

       右がおそらく恋愛関係の始まった10年後くらいのハイデガー。なかなか男前。

       左は40歳か50歳代ころのアーレント。

 

 手紙や補遺に収録されたハイデガーの逢引きのための細かい指示のメモなどを読むと、不倫男のずるさを感じさせて不快になります。

 

  

 それはともかく、アーレントとの関係。

 彼女は「影」という詩をハイデガーに送り、思春期からの傷つきやすさや居場所のなさを告白しています(p13-17)

 アーレントにとって、読む本も聞く音楽も考え方もほとんど同じハイデガーは、精神的支柱であり、敬意がそのまま愛情に転化したのでしょう。

 

 約1年後、アーレントがヤスパースのもとに移る決意をしたことで関係は終わりを迎えます(書簡35)。

 

 2人の間でどのような会話がなされたのか不明。

 ただハイデガーは「ぼくのことを<海賊>だと言ったね」と書いていることから(p43)、アーレントは「収奪されている」だけのいびつな関係ではないかと、勇気を振り絞って訴えたのかもしれません。

 ハイデガーは、個人としては別れたくないけど、「哲学する」ことからすればこれで良いのだと書いているのですが・・・・不倫男の台詞としてどう解釈すべきでしょう。

 

 ところがアーレントは、その後もハイデガーに手紙を書いています(書簡36-38)。

 そして「あなたへの愛を失うようなら、私は生きる権利を失うでしょう」という悲痛な書簡の1年後、1929年に彼女は結婚。

 どう考えてもハイデガーからの精神的離脱が目的の結婚。

 事実、この結婚はすぐに破綻。

 

 そして、ナチス政権下に。

 ハイデガーはナチスに協力して出世。

 ヤスパースは教授職を解雇され、アーレントは命がけでアメリカへ。

 終戦。

 

 

 

 アーレントとヤスパースの書簡集を読むと、1949年までアーレントはハイデガーに批判的(「アーレント=ヤスパース往復書簡 書簡93)。

 「二―チェ講義」は「ひどいおしゃべり」で「Sein」を「Seyn」にするとか閉じこもって変なことを書いていると。

 また、1950年以後は互いの著作や政治状況の議論で、ほとんどハイデガーについて触れていません。

 

    40歳か50歳ころのヤスパース。

70歳を超えたころの重々しい写真が多いので、これは珍しい。

 

 私はヤスパースとの書簡集を先に読んでいたので、アーレントはハイデガーとの関係について「けりをつけた」のだと思っていました。

 

 

 

 しかし、1950年2月7日、突然、ハイデガーがアーレントに手紙を出す(書簡46)。

 アーレントは衝動に抗うことができずハイデガーに会う。

 ところが、その場にはハイデガーの妻が同席していて、3人で話し合ったらしい(!)。

  

 その後、ハイデガーから、数日から数週間おきに詩や押し葉(書簡69)などを添えた手紙が送られてくるようになる(ちょっとキモ・・・)

 6月ころから月に1通程度になりますが、ハイデガーは「お便りありがとう」と書いているので返事は来ていたのでしょう。

 

 1960年代、特に半ば以後。

 アーレントはハイデガーへの敬意を顕わにした手紙を送り、1925年のことにも触れ始めます。

 「活動的生」をハイデガーに献呈したかった、なぜなら「すべてが、あなたに負っている」から(書簡89 1960年10月)。

 ハイデガーの著作を、再読し、味読し、いつも机の上に置いている(書簡120、124、130など)。

 

 ハイデガーは70歳を超え、アーレントは60歳ですが、ハイデガーは女学生に対するように誰それを読むといいと助言する。

 アーレントは「読むべき本のご指示をありがとうございます」と恭しく返礼する(書簡115、144、157、158)。

 さらにハイデガーのことを「いつもいつも、先生なのです」(書簡119)と書く。

 

 

 この時期の手紙のやり取りを読んでいると、アーレントはハイデガーへの愛情を捨て切れていなかったように思えます。

 文章は短いけれど、少し緊張感をはらんだ、様々な感情が濃縮されているような、ある意味詩的な文章です。

 それはヤスパースとの書簡と比べれば明らか。

 

 量はハイデガーとの手紙に比べるとはるかに膨大なものの、リラックスした雰囲気で、対等な立ち位置で知的議論をしている。

 時にヤスパースに反論し、ヤスパースもそのような態度を望んでいる節がある。

 そこにはいささかもウエットな感情らしきものはない。

 教えを乞い、恭順の姿勢を見せ、ひたすら敬意と崇拝の気持ちを伝えるハイデガーへの手紙とは全く違います。

 

 

 ところで、アーレントは書簡86で「活動的生」のアイデアを書いていますが、ハイデガーはスルーしています。

 一方、ヤスパースは何度も進捗状況を尋ね(書簡集2の後半)、献本されるとしっかり読んで、細かい感想を書き送っています(書簡327など)。

 ハイデガーは一度もそういうことをしない。

 アーレントはヤスパースに、ハイデガーの態度に一度だけ不満を書いています。

 「私は(略)演じてきた」「私の(略)本などないかのように」「彼自身の本の注釈だけをしているかのように」、子供のように振舞ってきたと。

 しかし、そのようなことにもう「飽き飽きした」(書簡297 1961年)。

 

 にも、関わらずです。

 

 

 私は「女性は、一度、別れた男のことをなんとも思わない」と数少ない女性の知人から伺いました。

 むしろ、男の方が引きずる。

 それは経験的に理解できます。

 

 アーレントはどうだったのか?

 ハイデガーを愛し続けていたのか。

 「男」としての彼と「学者」としての彼を分けていたのか。

 

 わかりません。

 

 

 

 ところで、二人の関係はエティンガーの著作で有名になりましたが、評判がよろしくなかったそうです。

 20年以上前に読んだ時は気にならなかったのですが、確かに再読するとハイデガーへの微妙な悪意と、アーレントがハイデガーへの想いを断ち切れなかった理由を、アーレントの自尊心だけに還元しています(p110)

 そもそも、1965年以後のことがほとんど触れられていないし。

 

 エティンガーの著作で面白かったのは、アーレントの二人目の夫のブリュッヒャーの漢っぷり(第5章)。

 それから、ブリュンヒルデ的な女性として描かれたハイデガーの妻(第8章)の件でしょうか。

 

 

 うーん。

 女性の謎は「深淵の暗闇」ということで・・・・

 

 

 

 

 落ち葉拾い

 

 1925年当時のハイデガーは、自分のやりたいことを「世界観の形成と(略)哲学の違いをはっきりさせる」ことと述べていた(書簡7)。

 

 自ら転回について触れ(「転回」はハイデガーが自分で使った言葉だった!書簡143注2、p289)、現存在の決断をアレーティアから考えてきたが、脱腹蔵を考えるようになってからは、現存在ではなく、存在<と>現存在について考えたいと書いている(書簡62)。

 

 <言うSagenと語るSprechenはどういう関係か。Sagenは思考と関係するのか>(書簡128)という質問に、ハイデガーはEnt-sagenとの関連性を示唆した(書簡129注2 p282)。

 

 思考について<思考をBe-Greiffe(概念=つかみ・とる)ではなくホリスモス(別れる)と考えることも重要>と指摘(書簡145)。

 

 コジューブが「存在と時間」を人間学として読んでいると批判(書簡98、1967)。

 

 ルネ・シャールと知人だった(書簡104、114 1968年ー)。

 

 メルロー=ポンティを評価していたが会えなかった(書簡141)。

 

 「存在と時間」の仏語版を誤訳と批判(書簡84 Sein zum Todeが、etre vers la mortでなくpour la mortとされてしまった)。

 

 女性観:「女性の働きかけと存在は(略)われわれにとっては、はるかに始原的(略)」「われわれが働きかけるのは、与えることでできるかぎりでしかない」(書簡20)。

 

 普段の勉強ぶり:ヘラクレイトスを(書簡74)、プラトンを何度読み直す(書簡87)、アリストテレスに立ち返る、ベンヤミンの引用元を探すのにマラルメを詳読する(書簡93)。

 ギリシャ哲学の原典を繰り返し読みなおすことを、70歳になっても続けていた。

 

 

 やはり偉大な人です。

 

 

 

 

 

ウルズラ・ルッツ編「アーレント=ハイデガー往復書簡」  大島かおり、木田元訳

6400円+税

みすず書房

ISBN 978-4-662-08711-3

 

 

ハンス・ザーナー他編「アーレント=ヤスパース往復書簡 1-3」  大島かおり訳

各5500円+税

みすず書房

ISBN (略)

 

 

エルジビュータ・エティンガー「アーレントとハイデガー」   大島かおり訳

2300円+税

みすず書房

ISBN 4-622-03656-8