気軽に読み始めた本書。
だんだん姿勢を正し、最後は己をかえりみて、若干、打ちひしがれた気持ちに。
特に、最近、仕事で反省しなくてはならないことをしでかしていたので、一層のこと。
でも、こういう時間も必要。
本書は、心理士からお医者さん、おそらく支持療法から行動療法、児童から成人と、資格も技法も対象も幅広く、いろいろな方が参加なさっていたス-パーヴィジョン(以下SV)について、11名の参加者の方々がお書きになったもの。
まず、村瀬先生の構えが素晴らしい。
専門用語を使わない。SVの場で、ほとんど日常語しか聞いたことがないとのこと(p108)。
ある方は専門用語で患者さんの説明をして、村瀬先生に「それでその方はよくなったのですか?」と尋ねられたと(p35)。
厳しい・・・。
あるいは「あの方は、ご自分の気持ちを相手の中にみて、それに向かってものを言われている」(p35)と、どなたもご存じの例の防衛機制をかみ砕いてお話しなさる。
こういう話し方ができないと、患者さんに「こころの動き」について説明できないではないか。
もう一点。
あるクライエントさんは自分の起こした交通事故で恋人をなくしてしまった。
その方のカウンセリングのSV。参加者もみんな、涙しているような状況。
村瀬先生の第一声。
「この方は保険に入っていたのでしょうか」
え?となるSVの場。読んでいる私もえ?となる。
「冷たいようですが、実際に起こりえる出来事に対して、どれほどの責任をもつ覚悟だったのか」、そして「そのような現実的なことを把握することも心理面接」と指摘なさった(p125-126)。
似たエピソード。
片親を亡くしたお子さんのカウンセリング。親御さんは再婚する。
村瀬先生、「養子縁組をしたのか」と質問なさる(p179-180)。
えええ?!
調べてみると民法の婚姻の項(第731-749条)に、再婚についての明確な項目は「再婚禁止期間」だけで、子について記載がない!
法律事務所などのHPで調べると、再婚した際、連れ子さんは養子縁組するかしないかの二択になる!
恥ずかしながら、私は知らなかった。
再婚すれば、「自動的に」戸籍に組み込まれるとばかり思っていた。
これは心理療法的にも重要な問題。
再婚相手が、連れ子さんのことをどう考え、どう見ているのか、よくわかるではないか。
つまり、カウンセラー側も世の中の常識をきちんと知っているかは、理論の勉強以上に大事であると。
そうでなければ、本当に患者さんを理解したことにはならないという教えである。
確かに「深層心理」も大事かもしれない。
しかし、その前に社会常識的側面がある。
そして、患者さんの人となりは、まずはそこに雄弁に現れるということだろう。
このようなことは繰り返し書かれている。
それだけSVを受けた方々も驚かれたのだろうし、ともすると忘れがちな視点だ。
切羽詰まっている人には抽象的なことではなく、実益に直結することを提供することが必要。
村瀬先生の言葉だと、心理面接は「抽象的な意味論を的確に考える力」と「普通の生活人としてのレパートリーがいっぱいあること」が重要と(p116)。
あるいは、「現実に役立つ情報を知っておく」、患者さんに「現実的な安定があること」が大切(p46、p96)。
違った表現だと「聞くことに(略)専念する場合と、それ以外に配慮をめぐらす必要がある場合」がある(p96)。
「こころの問題」の手前に、まず生活がある。
その現実的な安定がないのに、「こころの安定を目指して治療します」といっても、それはある意味、本末転倒かもしれないということだ。
それから様々な福祉支援制度を普段から把握しておき、必要に応じて伝えることも必要であると。
「それって、こころの相談?」という疑問を(特に初心者は)持つかもしれない。ソーシャルワーカーさんの仕事でない?と。
しかし、制度があるということは、同じ境遇の方がそれなりにいらっしゃることを示唆している。
さらに、そのような状況に社会全体が「無関心ではない」ことを伝えることにもなる。
つまり、制度の紹介自体が「あなたは孤独ではない」というメタ・メッセージを送ることになると思うのである。
そのことをもっと具体的に指摘されているのが、p49あたり。
「(養護の場合)福祉でも心理でも足りない」し、「細分化された専門家では間に合わない」。
「心理の仕事はこういうものと自己規定して仕事することは過去のものになりつつ」あり、「自分の置かれた状況に即して」働きなさいと。
この考え方、どのような職業でも当てはまると思う。
「それは私の専門(担当)ではありません」という姿勢は、状況が深刻な時ほど、端的に「役に立たない」人と見做される結果にしかならないと私は考える。
一方で状況がそれほど深刻でないと、今度は「専門家はいらない」ということになるかもしれない。
皮肉なことである。
そして、「専門家」を名乗る人間は、このパラドックスについて繰り返し考える必要があるのではないだろうか。
ちなみに村瀬先生は、繰り返し「ジェネラルアーツが重要」とおっしゃっていたらしい。
複数の方が書かれている(p85、p104、p162など)。
なるほどと思ったことをいくつか。
援助の手を差し伸べるが、拒否的な態度をとる例のSV。
「かたくなな個性の持ち主」と参加者が考える方向に傾いていく中、村瀬先生、「助けてほしいという気持ちがあっても」、「人の支援を受け入れるということは、自分の心の底のプライドを剥き出すことになる」と(p119)。
「人に助けてもらう」ことはありがたいことだが、「助けてもらわなければならなくなった自分が情けない」という気持ちを抱かれるかもしれない。
そのような気持ちに思いを致すことができるか。
担当さんは「誰にも見向きもされずに孤独だろう」と患者さんのことを考えた。
村瀬先生は「一人で生きていく不条理を知っている人なのでは」と考えた(p183-184)。
誰かから思いっきり大切にされないと、人は主体的に何かに取り組む気になれない(p166)。
これも重要な指摘ではないか。
治療の動機付けに問題がある際や、課題をやっていただく方法を使う時、このようことを念頭に置かないと、「やる気がない」とか「主体性がない」など患者さん側の個性などに押し付ける形で、かついたずらに否定的な評価をしてしてしまいがちだからだ。
発達の偏りがあって方向音痴の患者さん。
担当さんは注意力や見通しの悪さに由来しているのではと考えた。
村瀬先生は「記憶や素質の問題もあるけど」「生きていくこと、生活することで執着が乏しければものをきちんと覚えないのではないか」と示唆なさる。
そして、担当さんは、この患者さんが<価値あるものに出会っていないのでは>という大きな問題に気づく(p122)。
もちろん、この方は方向音痴を理由にカウンセリングにいらっしゃったわけではない。
日常のちょっとしたことから患者さんが抱えているかもしれない根本的な問題を引き出す、村瀬先生の見事さ!
また、村瀬先生だけでなく、本来の問題と無関係な事柄に関する村瀬先生の一言を、真剣に受け止め、その意味を考えた担当カウンセラーさんも素晴らしい。
別のページ(p162)で、「伝えられたものを伝えられたものとして受け止めるのが教養である」というゲーテの言葉を、村瀬先生がよく口になさっていたと紹介されている。
自分より経験年数の多い方が、一見、「当たり前」なことをおっしゃった時、いったん、そのご意見を自分の中に留め置いて考えるのが大事と個人的には思っているので、村瀬先生が口になさったゲーテの言葉は沁みた。
もっともそう思うようにしているのは、そのような時に「当たり前じゃないか」という反応をしてしまいがちな傲慢さを私が持っているからだが。
だから、自戒をこめて。
最後に。
中井久夫先生は、精神科のお医者さんの構えとして身体診察の重要性を説かれていた。
では心理は?
村瀬先生のお考えでは「正しい挙措」(p7-8)。
知らなかったことで、おおっと思った点。
インフォームド・コンセントの「コンセント」。
語源はconともに-sentire感じる(本書ではsntireになっているが誤植だろう)であると(p219)。
村瀬先生が気づかれたのではなく、熊倉先生のご著書(「臨床人間学」)からの引用のようだが、これもハッとした。
情報を伝達することだけが「インフォームド・コンセント」の本来の意味ではない。
共感する構えが前提にあるということだ。
学びとともに、身が引き締まる思いになった。
奥村茉莉子、統合的心理療法研究会編 「村瀬嘉代子のスーパービジョン 事例研究から学ぶ統合的心理療法」
3200円+税 230ページ
金剛出版
ISBN 978-4-7724-1416-6