ベルギー人といえば名探偵ポワロ。

 小学生の時から愛読し、真っ赤な背表紙のハヤカワ・ミステリ文庫を本棚に並べては悦に入っていたものです。

 ただし、当時、謎だったのが必ず名前を間違えられるお約束シーン。

 「ええっと・・・・ハーキュール・・・・ポイロット・・・ポイロットさん?」

 「失礼ですが(エクスクゼ・モワとかルビが振ってあったりする)、マドモワゼル。私の名前はエルキュール・ポワロです」

 「あら、フランスのお方でしたのね、失礼しました」

 「マドモワゼル、私は誇り高きベルギー人です」

 みたいな。

 

 しかし、発音を間違えるって、文章でどんな風に表現したのでしょうか?

 原書を見てみればいいのでしょうけど。

 ちなみに家内と子供1にベルギーについて尋ねたら、「それはワッフルに決まってるでしょ」「あとゴディバね」だそうです。

 

 

 さて、「午後4時の男」の奇妙な味わいが素晴らしく、「愛執」もあれこれ考えさせられたベルギーの作家ノートンさんの(出てから時間がたったけど)新作。

 積読だったのを読了。

 しかし、メアリー・ノートン(あの「借りぐらしのアリエッティ」の原作者さん。米林監督、スタジオ・ポノックに移ってからの「ちいさな英雄」、あれは一体どうしたことでしょうか・・・)と名前が似ているので混乱します。

 

 

 アメリー・ノートンさん、幼少期に日本で育ち、いったん母国ベルギーに戻った後、日本の会社に就職したそうな。

 で、ジャポンの”Kaisha”での経験を小説にして一躍有名に。映画化もされているとのこと。

 小説なんだから、そりゃあ話を大きくしているでしょうけど、日本人としては気持ちのいい内容ではないそうです。

 読んでないし、見てないけど。

 

 

 

 で、今回は幼少期の話。

 記憶がないはずの3歳までを描いているので、立派な「小説」です。

 

 ただ翻訳が・・・なんとなく残念(そう)な気がします。

 

 たとえばp6で医師に「病的な無気力」といわれて、わざわざ地の文に「語義的に矛盾する」と書かれている。

 たぶん「笑えるところ」ではないかと想像します。

 訳注で「『気』がないのでは『病気』になりえない、という意味」になっていますが、これだとピンときません(・・・でないですか?)。

 

 私の勝手な想像では、原文は「apathie pathetique」か「apathie pathologique」になっているのではと思うのです。

 「パトス情熱、気力」が「a-ない」なんだけど「パトス熱狂的、病的」ですと。

 日本語だと、矛盾のニュアンスはないけど「馬から落馬した」みたいな、繰り返しのある変な文章にわざとしているのではないかなと想像します(・・・たぶん・・・間違っていたらすいません)。

 

 あと、タイトルが「形而上学metaphysique」だし、解説によればフランスでの褒められ方が「豊富なボキャブラリー」(p156)なので、日常で使わないような堅い学問的表現を多用しているのに内容が3歳児の話という、語り口と内容のアンバランスさも面白いという小説なのでは・・・・と推測します(・・・たぶん・・・間違っていたらすいません、その2)。

 だとすると、もう少し翻訳の文章が「論文調」になっていたら、よりユーモラスになったかなと思ったりもします(って、エラそうに文句言うなら原書で読めよですが、フランス語の小説なんて読めませんよ! ←ただの逆ギレ)。

 

 もう少し言えば、せっかく日本が舞台で邦訳なのだから、もったいないと思うのが、二人出てくる日本人のお手伝いさんの口調です。 

 舞台が神戸なので関西弁にしたらよかったのにと。

 一人は気のいいおばちゃん(?)、もう一人はたぶん山の手の奥さんなので、言葉使いを変えたら、もっと二人の個性の違いが出ただろうし、主人公の女の子が日本語を話すところも、ちょっとたどたどしい関西弁にしたら可愛らしくて面白いものになったのではないかなあと・・・・。

 

 

 

 詳細な内容はお楽しみいただくとして、テーマはたぶん「言葉」と「生/死」かなと思います。

 理由は・・・・やっぱり、お読みいただくとして。

 

 一つだけ。

 「話すことは」「破壊的な性質を持っている」(p42-43 マラルメ!https://ameblo.jp/lecture12/entry-12584065915.html?frm=theme)と書かれた後に、「死」が抽象的に語られるシーンが続いて、その次は逆に「死」が生々しい肉体の破壊として語られるシーンになります(p44-52)。

 確かに見事な構成。

 

 

 私的にツボだったのが、発語と自我の芽生えが「食べる快」と結びついているように描かれるシーン(p28-29)。 

 「食べる」と「話す」の快は同じというのは、ある業界で定石ですが、その業界では「(自分の姿を)見る」が自我をつくることになっています(特にフランス語圏)。 

 ノートンさん的には違うと。

 「えー? 美味しいもの食べた時の幸せーな時こそ、<うーん、生きててよかった、私>なんだから、その時に決まっているじゃない。あんたたち、バカぁ?」という、いろいろな意味で喧嘩上等な感じが心地いい。

 

 

 

 あと、あるところで死にかけた時に、主人公は母国語を叫ぶ(p68)。

 「死」と「言葉」は「母なるもの」と関係しているのではと(辞書で調べると、フランス語でも<母国語>langue maternelleと表現するようです)。

 死にかける場所も、フランス語的には「母」と関係します。

 「えー? 言葉が<父のナントか>と関係するとか、あんたたちバカぁ?」という・・・(以下、略)。

 

 

 

 この小説では「鯉」が何度も出てくるし(p84、130-136)、ラストでは重要なモチーフです。

 ちなみに清貧に生きた三人の名前を、がつがつ食い散らかす鯉に名付ける主人公の女の子の底意地の悪さ、私は好きです(p132)。

 

 先日、近所のでっかい公園にちょっとだけ散歩に(外だから密閉でないし、だだっ広いので密着でも密接でもなかったし)。

 子供たちと一緒に、久しぶりにパンの耳を池の鯉たちにあげました。

 もうバシャバシャと必死で、「おいおい、そんなに必死になって仲間を乗り上げちゃったりして、そのまま陸にあがる? 進化しちゃう? Youたち、進化しちゃいなよ」と今は亡きジャーニーさんな気持ちになるくらい、確かに「意地汚い」。

 

 で、この鯉は何なのか。

 醜い、デブ、脂肪、汗(p84)、口を大きく開けるので、奥から見える生々しい内臓(p141-142)。

 「食べる」ことに必死な鯉は明らかにタイトルのtubesと関係している(ところでtubesと複数形なのが意味深です)。

 「生きる」ことは「食べる」ことだし、「食べる器官」は「話す器官」でもある(鯉は話さないけど)。

 

 

 

 ラスト。

 ここには書きませんが、植物的生から動物的生への「飛躍/再生」なのかなと。 

 

 

 

 

 最後にワタクシが得意の「ノイローゼ的な読み」を二つ。

 

 まず、二人のお手伝いさんの名前です。

 ニシオさんとカシマさん。

 ニシオさん、フランス人ならnichons(ニション)とか思い浮かべないかなと。

 お乳という意味。ニシオさん、母性的だし。

 カシマさん、フランス人ならquasiment(カジモン)を思い浮かべないかなと。

 ノートルダム寺院にお住まいのカジモドさん(仮名)の語源(?)で「ほとんど・・・(だめ)」という否定的な言葉。カシマさん、いじわるだし。

 

 あと、タイトルのmetaphysiqueですが、確かに「形而上学(形を超えた学問)」の意ですが、physiqueって身体とか生理機構とかの意味もあります。

 なので、人間の身体を高い次元metaからみると、要はtubeでしょ?ということでもあるのかもしれません。

 

 

 

 ・・・と、ただの妄想です・・・てか、妄想も行き過ぎるとちょっと頭がアレな感じですので、もうやめます。

 

 

 

 あれこれ書きましたが、いろいろ妄想できて、私は堪能しました。

 お勧めです。

 

 てか、女性の方の読み方、どんな点で魅力的な小説とお感じになるか、伺いたいです。

 

 

 

 

 

アメリー・ノートン「チューブな形而上学」   横田るみ子訳

1600円+税   159ページ

作品社

ISBN 978-4-86182-337-4

 

 

Nothomb A: Metaphysique des Tubes.   Albin Michel, Paris, 2000