仕事で必要に迫られ、積読だった「情念論」(+α)を読むことに。
本書は三部構成で、第一部が総論、第二部と第三部が各論+対処法。
第一部。
いきなり、今までの学問の全否定から始まる(p5)。
伝統を重んじるヤスパースは、デカルトのこういうところを嫌っている。
https://ameblo.jp/lecture12/entry-12548713692.html?frm=theme。
まず「能動」「受動」で考える(p6)。
さらに心身を分けるのだが、その根拠は「物体が思考するとは考えられない」(p7)。
そして「思考は精神に属する」が「熱や運動は(略)身体にのみ属する」(p7-8)。
さらに「精神」と「熱と運動」を分けるのは、その方がうまく説明できるから(正確な表現は、そのように分けなかったので、これまで様々な現象を「うまく説明できなかった」)(p8)。
また「精神」は「能動」、「身体」は「受動」とされる(p6)。
次いで、ウィリアム・ハーヴェイによる循環器系について説明。
デカルトは心臓に「不断の熱」があり、この熱で膨張・収縮が起こり血液が流れると、ハーヴェイが論じなかった(避けた?)心臓のポンプ機能を説明する。
さらにこの熱で血液が希薄化されると動物精気となって脳に集まる。
もし、体を動かそうとすると脳から神経を通じて精気が筋肉を動かし(p9-14)、逆に知覚が神経を「動か」し、その運動が脳に伝わる。つまり、この二経路は脳を媒介にしてつながっている(p16-20)。
さらに「精神」を介在しないで知覚して運動することもあると、今でいう反射弓の説明までされている。
それでは「精神」は?
デカルト的には「思考」だけ。
思考は二つに分かれ、能動としての「意志」と、受動としての「知覚、認識」(p20)。
「意志」はさらに二つに分けられ、「神を愛する」など対象が物質でない場合と、身体を動かそうとする場合(p20-21)。
「知覚」も二つに分けられている。「精神」が原因の意志についての知覚、意志に依存する想像や思考の知覚(デカルトは映像と観念を区別していたらしいので表象のことか不明:国分功一郎「スピノザの方法」p196)と、「身体」が原因の想像や夢、夢想など、意志と関係なく無目的な知覚(p21-23)。
そして想像は「一般的な意味で受動=情念」なのだが(p23)、情念の多くは、通常、「精神」に関連する知覚に限定される(p25)。
改めてまとめると、情念とは精神の知覚で、精気の運動で生じ、維持され、強められる(第二十七節 p27)。
その後、有名は松果体(本書では松果腺)が精神の「座」(場)であるとされる。
その理由が面白い。
目や手や耳は二つだがそれを総合するには一つの臓器が必要だろう、そして脳に対でないものは松果体だと(p30-33)。
さらに松果体は精気に動かされたり、精神によっても動かされたりするとされる(p34)
では、情念は精神のなかでどう生じるか(p36-37)。
ある対象を刺激として、精神の中に「不安という情念が」「引き起こされる」。
そして、どのような情念が生じるかは体質、精神の力、対象に対する経験などで決まる。
さらに情念によって、たとえば逃げるなどの運動をするために血液循環が変化し、精気が脳に送り込まれ、情念が維持、強化される(p37)。
ところで、精神の能動である意志は本性上、自由である(p39)。繰り替しになるが、精神の受動が情念。
能動と受動だから意志と情念は別ものであり、意志で情念を起こしたり、取り除くことはできない。
さらに精気の運動は「維持、強化され」(p43)「興奮が鎮まる」まで、情念は抑えられない(p44)。
精気は暴走したり、なかなか興奮が静まらない傾向がある。そして意志ではどうにもならない。
今にも通じる感情に対する考えのように思う。
また、身体は精気、精神は意志で、松果体で対立する(p44)。
とりわけ、情念やそれによる身体運動と、意志で「闘い」が生じる(p44-45)。
そして、情念とその運動を変化させるには「意味を思考する習性」によって別の運動に結び付けることで可能だとされる(p49)。
さて、情念は精神の知覚で動物精気が松果体を動かすことで生じることが繰り返されるのだが(p51)、そうだとすると、情念は精神と身体のあいのこ扱いではないだろうか?
これは「心身二元論」に矛盾していないのか?
どうも、情念に関しては、すっきりしてない。
第二部と第三部。
情念passionだと硬いので、以下、感情に言い換える。
デカルト的に基本的感情は6つ。
驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみ(p60-62)。
様々な感情は基本感情から派生もしくは組み合わされる。面倒なのでメモが以下。
緑のマーカーを引いたのが基本感情。
2つ目の画像の黒、赤、青字は、それぞれ対という意味。
デカルトはこれらの感情の生起を、血液と精気、心臓と脳以外の臓器によるとして(p80、84)、即物的に説明している(p80、84)。
さらに臓器が絡んでいるから、感情で身体的変化が起きるという(p107-108)。
たとえば悲しいと涙が出るなど。
ところで嫌悪の出現で、妊娠中に母親が経験した、または本人が幼児期に体験した出来事が影響していると述べている(p114)。
同じことを「哲学原理」でも述べているのだが(岩波文庫p86-88)、一見PTSD説のように読める。
どこかでデカルトがトラウマ概念の先駆者と読んだ記憶があるが、実際に読むと「ある体質になる」といった方が、デカルトの真意に沿っているように考えるが、どうだろうか。
さて、感情はどうすれば制御されるか?
デカルトが繰り返すのが「真なる認識」「明晰な認識」という精神の力(p117、122-123)。
なんらかの判断の過ちは、認識の欠如によるとも説明される(p135)。
もう一つが「高邁さ」をもつこと(p123、134-136)。
これは感情の一つなのだが、意志を善く用いる、私の言葉なら「適切に用いる」という固い決意で、徳でもある。
さらに徳をもつこと、つまり「最善と思うことを実行する」(p128-129)。
さらに、すべては「神の摂理」で偶然は幻であることを知ること。
人間の認識は不完全なので、本当は必然で運命なのに偶然のように見えているだけであると(p123-125)。
そして、最後に「情念に対する一般的治療法」が論じられる(p178-180)。
私の言葉にしてしまうと;
1)感情が生じるメカニズムを「知る」こと。
2)感情だけの判断は保留し、他の可能性(正確には「反対の」)も考える。
とにかく「考える」こと。
最後に「心身二元論」について。
訳者の谷川先生の解説で納得した。
私は未読なのだが、この仮説は「省察」で重点的に論じられているらしい。そして、それを読んだエリザベト女王から疑問を呈されて考えを改めたという(p253)。
ちなみに、その書簡は1643年。
本書の訳注に出てくるので一緒に読んだ「哲学原理」が1644年出版。
確かに「原理」の時点では、こころと物体は分けられる(p39)と書いていながら、感情で精神と身体が強く結合するなどの記載が見られる(p67,96)。
手元で積読だった「デカルト=エリザベト往復書簡」(講談社学術文庫)をぱらぱらめくると、「情念論」を読んで、議論に納得できませんというようなことをエリザベト女王は確か書いていて(書簡33)、面白そう。
読了しての感想。
<デカルトは理性で感情を制御できると考えた>と書かれることが多いが、そうだろうかという疑問が一つ。
これはスピノザが「エチカ」第三部序論に書いている。
「デカルトも(略)感情をその第一原因を通して説明すること(略)精神が感情に対して絶対の支配力がそなえうる道を示す」
私の誤読が無ければ「支配」「制御」という強いニュアンスより、むしろ感情はどうにもならないので次善策としてどうしたらいいかを述べている印象だったが、もう少しきちんと読み直したい。
(「抑制できない」「抵抗できない」と書いてある。p178、179とか)。
もっと勉強しないと。
ルネ・デカルト「情念論」 谷川多佳子訳
660円+税 272ページ
岩波文庫
ISBN 978-4-00-336135-1
Descartes R: Les Passinons de l' Ame. 1649