これまで、何度もチャレンジしては通読できなかった一冊。

 

 

 <狼男>症例の後、フロイトは第二局所論に向かい、「喪とメランコリー」を執筆した。

 フロイトにとっては、理論移行期に位置する症例(p13)。

 

 本書は、この症例のどのような点がフロイトの理論的展開に貢献したかを読み解くことが目的だった。

 ところが、途中から執筆の方向性が変わったという変わった内容。

 著者らによると、5年を費やして論文をまとめてゆく過程で、このようなことが生じたのだという(p5)。

 

 

 まず、原光景で解釈されていた狼男症例は、実は父と姉との問題の方が重要だったのではないかという仮説提示から始まる(p36-37)。

 そして、「狼の夢」の「擦るtieret」という語に注目し、語源や語幹から派生する語を並べていくと、「狼の夢」や分析場面で彼が語ったことで、重要な言葉に近い語が現れてくるという(p43)。

 通常の精神分析の解釈、音や意味から連想する方法ではなく、語源的に連想される重要な語、しかし本人は気がついていないであろう語を、彼らは「埋葬語Cryptonyme」と名付ける(p43)。

 さらにトロークらは、この語は「物表象」や「語表象」と関係せず、「近接性」を特徴とするという(p45)。

 つまり、何かの概念やイメージあるいは語を「代理」「象徴」しているのではなく、ただ「近い」「類似している」だけである。

 そして、埋葬語は象徴として機能しないので偽装的な働きをする、つまり、解釈しづらい(p55)。

 

 また、埋葬語は「体内化introjection/ incorporation:(もともとフェレンツィの概念。自己の拡大という意味(p182)。トロークたちは<私の中に触れえない他を取り込んでしまうこと>の意味)」され、臨床的には身体症状として出現するという(p48-49)。

 

 ところで、精神分析の基本的な考えは、根底に願望が隠され、本人には分からない形で、それらが症状や夢に変形して別のものや出来事として現れる、それを分析家と一緒に願望を探るというものだが、象徴でなく偽装だと、この方法は使えないことになる。

 

 では、どうするか?

 

 

 圧巻の第二部。

 私が挫折したのが、この箇所。

 

 第一部では狼男が話していたはずのドイツ語ではなく、トロークとアブラハムの母語、フランス語で検討していた。

 しかし、第二部では、フロイトと狼男が会話で使っていたドイツ語、ロシア人だった狼男の母語ロシア語、それに英語も含めて検討しなおす。

 なぜか。

 狼男が「狼の夢」で「窓windowになっているが目のことだと思う」と語っていたことに彼らは注目する(p71 狼男はかつて女性の家庭教師から英語を学んでいた)。

 

 そして、狼男のドイツ語の夢の語りを英語やロシア語に翻訳し、かつ語源や語幹から想起される語、語の断片的類似、正確にはスライドできない音(rやl)に置き換えたりしながら、文章を組み立て直していく(p70-150 第二部)。

 さらにivの書き損じから、Vは開いたズボンのチャック、Iは男性器であると判じ絵的な解釈まで行う(p89-93)。

 

 そして、狼男が明確には語らなかった、というか、知らないし、見てもいない、痛ましい姉の事件が、この一族では「無かったことにされている」、そのことが彼に影響していると二人は結論するに至る。

 

 

 時にドイツ語のrechtのchの発音は、ロシア語だとkhriekh罪を思い起こさせるなど(p122)、若干強引に思えることもあるが、読み進めるとある種の説得力を感じるようになる。

 彼らもこの方法が虚構である可能性を否定していないが(p57)、すべて首尾一貫していると主張している(p148)。

 

 

 第四部は、この読解を通じて彼らが見出した重要な概念の説明。

 Crypt埋葬。

 

 人が、あまりにも深刻な心的ダメージを受けると、その出来事は象徴化できなくなる、あるいは、象徴が断片的になる。

 こうして欠けているところを、彼らは「共ー象徴化するco-symboliser」と定義する(p157)。

 あるいは「亀裂」「代補的」な象徴を「共ー象徴」という(p158)。

 

 また、埋葬語は無意識である必要がない(p159)、虚構としてしか姿を現さない(p158-160)。

 ただし、出来事自体は完全に無意識。

 

 トロークらは埋葬語の変形の仕方を指摘しており、私なりのまとめ方だと4つ。

 発音の部分的相似による擬態、単語の断片化、判じ絵、そして翻訳(p159、p163-164)。

 

 確かに、象徴化されていないと連想があてにならないので、分析家は解釈しづらいだろう。

 そしてフロイトが狼男症例の治療に失敗したのも、このためではないかというのが、彼らの結論。

 

 

 以上のように、本書は途中まで狼男症例の解釈のし直しを目的としていたが、ある語を注目してから彼らのオリジナル概念、cryptの理論的展開が主となるのである。

 そういう意味でも読みにくさがあった。

 

 

 とこで、このような例でどう治療するかだが、分析の対象となる人間関係や生活史の範囲を広げながら、本人のポジションを見直して、極端な情動負荷を希薄にしていくしかないだろうと彼らは述べている(p153)。

 

 

 

 なお、付録でデリダの「Fors」という論文がついている(p175-241)。

 なんとアブラハムは、もともと現象学的に精神分析を考えたかったという(!!p211)。

 「現前しないもの」「無―場所」「無ー時間」(p212-213)、あるいは後のデリダが使う言葉なら「幽霊」、レヴィナスなら「一度も現前化しなかった過去」(p283-284)などをいかに概念化するかともつながる。

 

 

 

 フロイトが提唱した夢の仕事や喪の仕事が、機能停止してしまうような「出来事」がある。

 そして、その「出来事」は心の奥深くに蛹のように被包され続ける。

 ところが、その「出来事」にまつわる「語」は姿をまったく現さないわけではなく、わかりにくく変形したり、時に文脈不明にそのまま露呈することがある。

 一方、「出来事」は無かったことにされ続けているので葛藤したり悩むこともなく、あるいは葛藤や悩むことができず、それらが持つ情動的負荷だけが密かに精神に影響し続けることになる。

 

 

 

 ただ「フロイトの概念を後追いした」のではない、新しい理論展開。

 実践にせよ、研究にせよ、かくありたい。

  

 

 

 

 

マリア・トローク、二コラ・アブラハム「狼男の言語標本 埋葬語法の精神分析」   港道隆、森茂樹、前田悠希、宮川貴美子訳

3300円+税   305ページ

法政大学出版局

ISBN 4-588-00850-1

 

Abraham N, Torok N: Cryptonyme. Le Verbier de l'homme aux loup. Flammarion, Paris, 1976