昨日https://ameblo.jp/lecture12/entry-12588398978.htmlのいわば「続編」です。
日本で、たぶん唯一といってよい「修復的対話」の分かりやすいガイドブックです。
ご存じない方もいらっしゃる、聞きなれない対話法かもしれません。
これ、原語はRestorative Justice Dialogueで、日本では「司法的修復」「修復的司法」「修復的正義」などの重々しい訳語があります。
ただ、これらの訳語だと「法律関係限定」みたいですが、そんなことはありません。
Restoreは「修繕する」という意味ですし、あとJusticeは、私の考えでは「正義」の方ではなく「公平」の意味だと思います(「正義」という語は・・・なんか怖いですよね)。
つまり、公平性を担保しながら関係を戻すことを目指した対話の意味だと思います。
探すとYou tubeなどで「いじめの加害者、被害者の話し合い例」など出てきます。
実際、もともとこの方法は、理論先行ではなく(理論先行でないところが、私的には信頼できると思う点です)、非行少年との話し合いをどうすればうまくいくかの模索の中で編み出されたとされています(p15-16)。
日本でも少年院で用いられているそうです(p46-48)。
興味深いのが高齢者虐待への応用です(p53-57)。これ、著者の梅崎先生もご研究されているとのこと(p57-59)。
というご説明でお分かりの通り、これも葛藤対立への技法になります。
で、本書です。
非常に具体的。
写真も多くて読みやすいです。
本書を読んで重要だと思ったのが、「話し合うこと自体」が目的であるという思想です。
普通、話して「何か結論を出す」(これだと議論)、「話して楽しかった」(これだとカタルシスを得ただけ)を求めてしまいます。
でも梅崎先生は、そういうことではないと(p58)。
「話す」より、「聞く」が重視されている(p25)。
というか、本書はほぼ一貫して「聴く」の方を使っています(たまに梅崎先生、うっかりなさったのか「聞く」も混ざります(p70とか))。
「聴く」は「<耳>と<目>を<十>分に使って、<心>して相手のはなしをきくこと」ですよね(<>の漢字が”聴”に全部入っていますよ)。
私がうっかり書いた「聞く」は、門がまえなので、「ちわー、三河屋でーす」という感じの「きく」ですね(って、わかりにくいですが、人の家を訪ねてお話を「きき」に行くみたいな、ざっくりした<きく>)。
本書にはいろいろなものの準備や、ルールの記載(といってもシンプルな原則で、物もそこらにあるもので準備可能)があるのですが(第四章)、これは要するに(要約すると失礼ですね・・・)、まず「非日常を作る」、つまり「いつもと違った聴き方をしましょうね」という意味のメッセージを参加者に非言語的、行為遂行的に送っている、それから「真剣」「誠実」な態度をいつの間にかとっているような設定を作る、ということだと思います。
実は、私もこの方法のワークショップに参加したことがあります。
そこでの感想。
「ああ、おれって、今まで人の話を聴いてなかったな・・・」でした。
この対話法を経験して、普段、自分がいかに「話を聞きながら、どう返事をしようかを考えていたか」に気付きました。
自分でもびっくりするくらい真剣に相手の話を「聴く」ことができて、終了後になんだか違和感を抱いて、よくよく考えて、ハッとしたのでした。
この方法は「話すとき」に小道具があるのですが、これがちょうどいいんですね。
小道具がない人は「話さないで聴く」というルールなので、「無理に何か話さなくていい」という解放感はあります。
ただ、これって、おそらく、この方法を生み出した欧米の、<何か発言しないと”能力がない””きちんと関わるつもりがない”と評価される対話文化>における「無理して話さなくても否定的評価をしません」を担保する「安全装置」というのが本来の意味ではないかと愚考します(私の憶測なので、勘違いならすいません)。
日本だと、会議で黙っていてもそれほど人物評価に影響しないから、「俺が俺が」で実は内容のないことを「無理に」発言する必要はないですものね(最近はそうでもないかな)。
でも、日本人の私的にはそれだけではない意味が。
たとえば話したいことがあるのだけど、まだうまく言語化できない時です。
もともと、話すことがない時は無理しないでパスしてもいいのですが(p69)、なんだか「喉元まで言葉になりかかっている」時があります。
そういう、考えたいのだけど、ずっと黙っている訳にいかない、しかも手持ちぶたさで視線をどこに向ければいいか分からないってこと、ありませんか?(・・・ないすか? 私だけなんすかね・・・)。
そんな時、ちょうど手元の道具がもて遊んで考える時間を作ったり、あるいは誰かと視線を合わせなくていい、小道具が視線を注ぐ先になってくれて、すごく楽に考えられるんです。
あと、参加者の輪の真ん中にも物が置いてあって、そこにも視線を向けられます。これも楽。
いわゆる「床の間文化」にぴったりなんでしょう(対人恐怖について研究なさっていた内沼幸雄先生がお書きになっていたと思うのですが、床の間は、相対して座った時に、相手から視線を逸らすのに丁度いいようにできたのだと読んだ記憶があります。間違えだったらごめんなさい)。
もう一つは、「聴く」ことが「話す」以上にカタルシスになるという経験でした。
これは驚き。
お話をじっくりと聴いていると「そう、そう!」ということがある。
普通、そこで「ああ!わかるー!」などとうっかり割り込んで邪魔してしまいそうですが、そこを最後まで聴いていると「そうそう」を通り過ぎて、「ああ、そういう風な考え方もあるのか」とか、「自分だと違う風に考えるなあ」と考える時間ができる。
うろ覚えなのですが、ブランショか、ヴァレリーか、マラルメか、その辺が書いているはずですが、「人は書いている間は考えていない」という文言があったと記憶しています。
それをパラフレーズすれば、「人は話している間は考えていない」といってもいいのかもしれません(言い過ぎか?)
これって、私的には大発見でした。
やはり経験して実感しないと分からないことって、ありますね。
いろんな対話法がちょっとした流行ですが、この方法は1974年から出来上がったもので、いろんな方法の中でも「由緒正しい」ものです。
ぜひ、ご一読を。
あと、興味を持たれたら、百聞は一見にしかず、一度、体験するのもいいと思います。
てか、うちで家族会議開くとき、これやろうと計画しています。
まま、ありがたいことに、家族会議を開くことが必要な深刻な事態は起きてないけど・・・
怪しいのはこども3だな・・・・大丈夫かな・・・・心配・・・・・
あ、この心配を家内とこの方法で話そうかな・・・・・
梅崎薫「修復的対話 トーキングサークル実施マニュアル」
1500円+税 124ページ
はる書房
ISBN 978-4-89984-183-8