長らく積読だった「ヴィオルヌの犯罪」。

 帯に<狂気とは何か?>とあって、面白そうだな・・・と購入してそのままでした。

 仕事場で空き時間に読了しました。

 

 で、読後の感想。

 え?これ、狂気とは何かというテーマでいいの?

 

 私の誤読もあると思うので、あくまでも一個人の意見ということで。

 

 

 本作は、実際にあった殺人事件を題材にしています。

 ばらばらの遺体がフランス各地で、貨物列車の中から発見される。被害者は女性。

 すべての列車はヴィオルヌの陸橋を通過している・・・

 

 別にミステリーではないのですが、ネタバレっぽくなるかもしれないので、これから読もうかなという方は、以下、お控えいただいた方がいいかも。

 とりあえず、なるべく具体的な筋は書かないようにします。

 

 

 

 

 

 本書は三部構成です。

 さらに対話形式で、いわゆる「ト書き」にあたる地文はありません。

 

 第Ⅰ部はおおよその事件の概要説明。

 犯人はある女性。しかも精神的な問題を抱えている。

 ここまではドキュメンタリ―タッチというか、どんなことがこれから明かされるのか・・・・・という感じです。 

 

 ところが。

 

 第Ⅱ部は犯人の夫と質問者との対話なのですが、読み進めていくうちに、どんどん違和感が。

 

 夫が、犯人と目される妻を気に入ったのは、「肉体的な面」がよかったからと、平然という(p107)。

 精神的問題もあることだから離婚という選択肢もあったわけですが、そうなったら彼女はどうなったと思うかと質問されても、「カオールへ戻ったでしょう。あの牛乳店に戻ったでしょうね」「ぜんぜんこわくない」(p111)とこともなげに返事をする。

 ほかにもいろいろあるのですが(p115-116)、まま、どうぞお読みください。

 要は、この人、結婚して「彼女を救った」と考えているような男なのです(p119)。

 

 

 第Ⅲ部は犯人と目される女性との対話。

 確かにところどころ、つじつまが合わなかったり、矛盾したり、奇妙な発言はあります(p188の科白などは支離滅裂だと思います)。

 でも、デュラスがここで描きたかったのは、本当に「狂気」だったのだろうか、と私は思います。

 

 

 徐々に明かされること。

 それは、この女性の「空虚な人生」です。

 

 彼女は夫を「あまり好きじゃない」といい(p159)、家に秩序もなく(p166-167)、夫から「教養がない」と無味乾燥な地理の本を読むことを強制されている(p219)。唯一の楽しみが庭で西洋ハッカ草menthe anglaise(マンタ・グレーズ)を世話すること(p174)。

 彼女は被害妄想と鋭い勘のないまぜになった意見をもっている。

 それは、<本を読まなくてはならないことは、彼女にとって大事な記憶に対する夫の罰>ではないかということ(p220)。

 

 

 彼女は幸福なのでしょうか?

 質問者に、あなたは不幸かと尋ねれられれば、「いいえ」でも「はい」でもない。

 「大体幸せだといってもよく、もうほんの少しのところで幸せ」(p181)。

 奇妙な言い回しですが、つまり、決して幸せではない。

 事実、「永続するような幸福」が失われたといっています(p185)。

 

  事件の前、彼女が新聞社に送ろうとした手紙の下書きを夫は見つけます。

 間違いだらけでたどたどしい字で、la mentheハッカ草(ラ・マント)をun amant恋人(アン・ナマン)と書き間違え、カオールとも書いていた(p143)。

 彼女は質問者との対話でも、西洋ハッカ草をamante anglasie(アマン・タングレーズ=これ、原題です)と言い間違える(p174)。

 

 終盤。質問者は不思議な質問をします。

 誰が「向こう側」で、誰が「こちら側」か。

 <カオールで出会った男性>はこの女性にとって「両足でこちら側に立っていた」が、夫は「性質は向こう側」で「どちらともいえない」という(p205)。

 

 

 永遠に失われた幸福。

 彼女の肉体だけを愛し、彼女を救っていると見下し、教養がないと「地理の本」を読めという夫との生活。

 

 

 彼女が狂気に陥っているとして、それが問題の本質なのか。

 

 彼女は自分が夫にどのように扱われているのか、理性的にではなくても、おそらく十分に分かっている。

 そして、失われたun amant恋人を追い求めている。

 庭にあるmenthe anglaise西洋ハッカ草は、「遠くへ行ってしまった」un amantを、<amante anglaiseイギリス人の恋人>という「言い換え」で想起させるのでしょう。なぜなら、<カオールの恋人>を一生忘れることができないから。

 

 anglasieって何か意味がほかにあるのか調べたのですが、filer a l'anglaiseという慣用句があるそうです。

 発音がアマン・タングレーズから離れて、フィレ・ア・ラングレーズですか、意味は<挨拶もしないでいなくなる>です。

 フランス人がanglaiseからこの慣用句をぱっと思い浮かべるかどうかわかりませんが、カオールでの出来事とぴったり一致します。

 

 

 私はデュラスがこの小説で描きたかったのは、文庫の帯の<狂気とは何か?>ではないと思います。

 

 愛のある(あった)失われた生活を胸に抱きつつ、愛のない現実の生活の中で生きることの意味。

 それは狂気の中にあろうがなかろうが、同じではないか。

 

 あるいは、狂気であっても、誰かに愛情を抱くこと自体は決して「狂わない」こと。

 

 

 非常に切ない読後感でした。

 そして、これ、立派な恋愛小説だと思います。

 といっても、デュラスらしい、ひねりがありますがhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12494991302.html?frm=theme,https://ameblo.jp/lecture12/entry-12494553352.html?frm=theme

 

 疲れていた心には、結構ドスーンとくる小説でした。

 でも、素晴らしかったなあ。

 

 

 

 

 

マルグリット・デュラス「ヴィオルヌの犯罪」  田中倫郎訳

825円+税   240ページ

河出文庫

ISBN 4-309-46146-8 (絶版?)

 

 

Duras M: L'Amante Anglaise Gallimard, Paris, 1967