アスペルガー障害または症候群(現在、自閉性スペクトラム障害(症)に吸収)の元概念・自閉精神病質を提唱したアスペルガーの評伝。
本書の主張を私なりにまとめると4点。
1)アスペルガーはナチスに入党していた教授に見いだされ(p50-53,58)、戦後もその恩を忘れなかった(p55)。自身はナチスには入党しなかったが(p107-109)、極右政党には属していた(p58-59)。さらに、アスペルガーはほとんど業績がないのに、この教授の人事で児童治療診療所所長という要職に若くして着任(p66-68)。
2)当時、「共同体に不適応」「遺伝的に劣悪」「学習能力がない」「道徳心がない」子供たちを安楽死するプログラムがあった(p134-173)。アスペルガーがこの制度に直接かかわった証拠はないが、同施設に子供を送っていた(p17-18、193-203、320-325)。
3)「自閉」概念を使った研究は治療経験豊富な同僚たちの方が先で、経験の少ないアスペルガーは引用元を明記せずにその概念を使って論文を書いた(p69-79)。
4)自閉精神病質概念が、ナチスのオーストリア併合後、「異常な児童」「組織の一員になれない」など否定的側面を強調し、ナチスの思想寄りに変化した(p244-248、p298)。一方、1968年以後の論文では善意にあふれたものに変化した(p335)。
ところで、メンタルヘルスは社会背景や歴史的背景を抜きにして語れない側面がある。
当時のナチス政権下での人間観(第三章)。
遺伝的健康さ、強い共同体意識をもつこと、均質な民族共同体(p19)や体制に所属できる人間(p19)へと育成すること。
オーストリアの医学界はこの人間観を受け入れてしまう。
さらにタイミングが悪かったのが、当時のウィーンは社会主義政権(p33)で先進的な公共福祉政策を行っていた(p35)。
公営住宅、託児所の整備が進み(p36)、子供が生まれるとワーカーが全家訪問し、生活状況の把握や助言をする制度があった(! p38)。
そこで、もし不適切な養育を受けていると判断された子供を見つけた場合、里親に送ったり、施設へ「収監(原文ママ)」した。
この制度そのものは、非常に優れていた。
問題は、この制度を「優性学思想の政権」が自由に利用できるとどうなるのかということになるのだろう。
ネットワークがなまじでできていたために、瞬く間に全国民の健康状態が管理される(第四章)。
そして、ドイツ民族にふさわしい児童かどうか選別され、不適合なら安楽死となるシステムが出来上がった・・・・・。
さて、このような状況下であったことを考慮に入れてアスペルガーの生涯をどうみるべきか。
業績もないのに極右政権をうまく立ち回って出世し(p320-321)、児童の安楽死にも目をつぶって、間接的にナチスの民族共同体構想に加担した人物か。
本人も主張していた、ナチスに入党しないという当時としては危険な立場の中で子どもたちの命を守った医師か(p320)。
このような問題で難しいのが、著者のいう「グレーな」人たちの責任問題(p328-322)。
本書に出てくる児童安楽死施設は、当時、ウイーンで噂になっていたらしい。
だとすると、一般市民たちはその存在を黙殺していたことになるが、それは罪ではないのか?
あるいは安楽死施設に勤務していた会計担当、市職員、料理人、地元の食料品店(p25)などに道義的責任はないのか?
結局、アスペルガーがナチスの戦争犯罪に加担したという明確な証拠はない。
アスペルガーも一般のドイツ・オーストリア国民と同じく「グレーな」人物としかいえない。
もう一点。
1944年のアスペルガーの論文は、著者の主張ほど悪意に満ちていないと思う。
そもそも障害に関する記述は、価値中立的であろうとしても、どうしても「XXができない」「XXに欠けている」「XXが不足している」と「何かが欠けている」点に注目した論述になってしまう。
そういう意味で、アスペルガーの記述が、特別に過剰に「欠点ばかりあげつらっている」ようには読めない。
むしろ、彼らの良い点、たとえば、本質的観察力、独創性、将来性などや、成人後に社会的に成功した例さえあげている。
本書で私がもっとも面白いと思ったのがGemutについて(p87-98)。
著者によると、もともとこの言葉はSeele魂の同義語として18世紀に登場。
その後、カントが「超越的機能の基盤」、ロマン派の時代に「非合理的情熱」へと意味が変化。
ゲーテの時代には「この単語は、自分や他人の弱さを賛美する」と否定的にとらえるようになった(p90-91)。
しかし、19世紀から、家族や友人との絆、温和な友好的気質という意味になったという(p91)。
ところが、1938年に民族的意味が含まれるようになった。
「ドイツ人に特有の性質」で「他言語に翻訳できない」「人種的感情や価値観に根差した魂の内の感情」「フランス人のような合理的精神にはない」(p93)。
著者はこの「ナチスが重視したGemut」の欠如が自閉症精神病質であると、アスペルガーが記述したかのように読める書き方で議論を進める(p96-98)
しかし、ドイツ精神医学ではこの用語を以前から使っている。本書は、この1938年のGemut概念と伝統的なGemut概念の区別を明確にしていない。
さらに著者は、ナチス寄りの精神科医パウル・シュレーダーがGemutの論文を書いていて、アスペルガーが彼の論文と「似た表現で書いている」、さらに彼の弟子の論文を引用していると書いている。
アスペルガー論文https://link.springer.com/content/pdf/10.1007/BF01837709.pdfを読むと、確かにGemutという語が頻出し、シュレーダーと弟子の論文も引用されてるが、私の読める範囲でGemutは普通に「心情」という意味で使っており(全人格的ganz Peronlichkeitという特殊な使い方もあった p80)、「重要である」程度の記載だった。
どこにもドイツ精神云々などの語はない(p80ではAgapeだと言い換えている)。
またアスペルガーは確かに共同体について書いてはいるが、Volks民族など論じていない。
<本書の感想>
評伝として価値があるが、若干「センセーショナル」に寄っているように思う。
たとえば、児童相談施設「収監」と記述しているが、現在なら<児童相談所が要支援児童を「保護」する>に相当する。
このような、時に悪意がないか?と疑問を感じることが全くないわけではなかったのが残念な点。
もう一点。
メンタルヘルスを外から見ると、中にいる者が悪意なく行っていることが、これだけ逆の意味で受け取られる可能性があるのかという驚きと、薄っすらとした恐怖感を抱いた。
それにしても、ナチスと少なくとも「直接的な関わり」を避けようとしたと思われるアスペルガーを、私たちはそう簡単に批判できるのだろうか。
もし不幸にも社会の風潮が、本当は賛同できない流れにある時、同調圧力を跳ね返す勇気を持てるか、「なかったこと」や「知らなかったこと」にしないで生きていけるか。
本書は、そういう問いを鋭く喉元に突き付けてくる。
「アスペルガー医師とナチス 発達障害の一つの起源」 エディス・シェーファー著 山田美明訳
1900円+税 360ぺージ
光文社
ISBN 978-4-334-96231-9
Sheffer E: Asperger's Children. W.W. Norton, NewYork 2018