仕事で読んでいたら、ちょっと思いついたので、メモ代わり。 

 

 本書は「声と文学」について議論したシンポジウムをまとめた論文集。

 無茶苦茶、面白い。

 

 塚本先生のヴァレリー論(p143-162)が仕事で参考になると思ったのだが、ほかにも読み応えのある個所でいっぱい。

 

 郷原佳以先生(p74-102)の論文では、何度読んでも分からなかったブランショの「小説」と「物語」の違いがわかった・・・ような気がする。

 

 谷口亜沙子先生のシャルロット・デルボ論も面白かった(p163-182)。てか、こういう人がいたのかと驚き。

 アドルノのあの定義に堂々と反論したアウシュビッツの生存者。

 以前書いた、エムケさんの考える証言者の要請、<何が起きたかではなく、誰がそこにいたかを忘れないでほしい>https://ameblo.jp/lecture12/entry-12555897829.html?frm=themeが、まさに彼女の作品のテーマ、技法になっている(p168-170)。

 生存して戻ってからの生活の問題もデュラスの作品https://ameblo.jp/lecture12/entry-12494991302.html?frm=themeよりも興味深い技法で描いていたらしい(p170-171)。

 

 面白かったのが立花史先生のマラルメ論(p313-333)。

 テーマとまったく無関係な一か所でひっかかって、妄想が止まらない!

 

 マラルメは、複数形のsと二人称単数形の動詞つくsが並んだ時、目の快楽を引き起こすと述べたのだという。

 それは耳の快楽を引き起こす音韻とは別の韻だから(p327-328)。

 

 なるほど!

 フランンス語ではs,hなど無音がある。しかし、文章として目で追うとsの反復を見ることはできる。

 だから、フランス語の詩には二重の楽しみがある。音読と黙読。

 そして、愉悦の大きさは、黙読>音読になる!

 

 ここから妄想。

 精神分析は、無音がほとんど無いドイツ語を母国語にするフロイトが創始した。

 ドイツ語の発音は明瞭で、不規則性や例外があまりない。

 しかし、フランス語は無音の字やリエゾンなど、発音に特殊性がある。

 これだとドイツ語よりも、書かれた文章と聞こえる言葉がずれてしまう機会が多くなるのではないか。

 たとえばフランスのとある精神分析家が、sinthomeとsaint hommeをひっかけて論じている。

 両方ともに読みは「サントーム」。

 フランスは、そもそも日常的に話されている言葉が、話されている何かと別の考えがあるという発想を受け入れやすい構造になっているのではないか。

 フランスの哲学者もよく書くことと読むことの違いを指摘するし。

 

 

 後半の残念なところは、そろって初音ミクについて論じていらっしゃる箇所。

 私は、このようなポップカルチャー(?)を学術用語で、しかも学術的な場で論じるというのが、ちょっと苦手なので読んだ瞬間に拒否反応が。

 

 そもそも初音ミクの声は「声」なのだろうか。あれは「音」ではないのか。

 発音主が目の前にいない、でも確かに主が「いる」/「いた」という実感を伴う「声」は、本書でも取り上げられているロラン・バルトの議論で考えるので十分ではないか。

 初音ミクが「生々しく」「そこ」に「いる」わけではないし(たぶん。「そこ」に「いる」「ようだ」なら理解できる)。 

  

 とはいえ、収穫の多かった一冊。

 

 

 

 

塚本昌則・鈴木雅雄編「声と文学 拡張する身体の誘惑」

6200円+税  584ページ

平凡社

ISBN 978-4-582-33327-5