奇跡の一日。

 仕事がつつがなく終わりました。 

 

 映画でも見ようとレンタル屋へ。

 あれ、観に行きたいなあと思っていたら、もうDVD?

 またこのパターンです。

 早いなあ。

 

 「イースタン・プロミス」のロシア・マフィア役が強烈過ぎて(あと「ヒストリー・オブ・ヴァイオレンス」も。両方とも名作だと思うのですが、レンタル屋で見かけません。どうしたことでしょう)、しつこいですが、私の中でモーテンセンは「ニコニコしながらいきなり殴る人」です。ロシア訛りの英語もかっこよかったなあ。

 今回は大袈裟な身振りのイタリア系アメリカ人役でイタリア訛り。わざわざ体型まで変えています。

 しかし、ジェスチャーがロバート・デ・ニーロやジョー・ぺシみたいで、ちょっとやり過ぎ感も・・・。 

 あれはハリウッド映画で「日本人」がやたらと変なお辞儀をしているのに近い感じではないのでしょうか。

 

 この映画。

 もちろん、感動。

 びっくりしたのが、内容的にも画面の雰囲気も秀逸な小品と思っていたのですが、130分の映画だったこと!

 「大作」ではないですか。

 私の体感時間は100分くらいでした。

 

 あと、この映画で思うこと。

 「過ぎたるは及ばざるがごとし」。

 

 「過剰に」丁寧な言葉使い。

 「過剰に」自分のルーツで囲まれた部屋。

 「過剰に」コントロールされた感情。

 「過剰に」みえる尊大さ。

 「過剰に」秩序だてられた生活。

 

 その過剰さは、もちろん欠落をふさいでいるからなのですが、何の欠落かはご覧くださいませ。

 私は、冒頭、モーテンセンとの出会いでシャーリーが座る位置と、モーテンセンと別れたあとにシャーリーがすっと座る位置の違いに、なんだか泣けてきてしまいました。

 

 私的に印象に残ったのは、「あれ、やっぱり、YMCAはそういうところと思われているの?」でした。

 つまらないことなので、意味の分からない方はスルーしてください。

 映画ではそうなっていただけです。

 てか、わざわざ「YMCA」であることを撮っているんですよ!

 

 それと、ドン・シャーリー役・・・あれ、観たことあるなあ、誰だっけと思ったら、「ハウス・オブ・カード」のレミー役の俳優さんだったのですね。

 全然、イメージが違う。

 もう少しがっちりした感じだった記憶が。いかにも食えないロビイストという感じでした。

 今回は、とても線が細い繊細な感じです。

 向こうの俳優さんは、ホントにカメレオンみたいです。

 

 それにして「他者と共存する」ことの難しさがよくわかります。

 南部の人たちにとって身に染みた「常識」のため、驚くようなことを、「え、何か問題でも?」という感じで、さらっとおっしゃる。

 それに対して、静かに毅然とした態度で戦うドン。

 いつも分かってるような分かってないような困った表情で、飄々としたトニー。

 このトニーの雰囲気がいい。これで映画のテーマの説教臭さを消してくれています。

 

 あるシーンで、ドンがピアノの隅のグラスをすっと床に置いて(←この動作の意味は映画でご確認ください)、バーのホンキー・トンク・ピアノでショパンの練習曲23番(?)をごりごりと弾き始めるのもいいシーンです。

 そのあと、バーを出た後のトニーもカッコいい!

 生まれ変わったらヴィゴ・モーテンセンになりたいです(←無理ですね、はいはい。わかってます)

 

 ちなみにこの映画、よくある「白人が黒人を救う映画」批判があるようですが、そうでしょうか。

 たとえば日本人のことを小ばかにしていた南部訛り丸出しで無教養なダメ白人兵士が、人種差別と寡黙に戦い続ける大学出の日本人将校の部下として配属される。

 最初はバカにしていたダメ兵士は将校の部下として教えを受けて成長し、日本人将校も白人への構えを緩めて素敵な笑顔で応じるようになる(ドン・シャーリー役の俳優さんの寂しそうで照れくさそうな笑顔は素敵です)という映画をみて、「白人が日本人を救う」映画と思います?

 (「ラスト・サムライ」の設定をいじって、さらに立場を逆にしてみました。あの映画こそ典型的な「白人が非白人を救う」じゃないですか?私は二度と見ないからいいですけど)

 

 この映画でも雨のシーンは、悲しみを象徴する重要なシーンです。

 そしてラスト。

 雨から雪に。

 両方のシーンで警察官が出てきますが・・・・まま、見比べてください。

 さて、この映画の雪。

 ただの雪でなくて、クリスマスだと強調している表現ですね(クリスマスだからといって雪が降るとは限らないのですけど)。

 ハリウッド映画の伝統でしょうか。こういうスクルージおじさんな(?)展開。

 クリスマスには「奇跡」が起きると。 

 

 

 

 さて、もう一本。

 やっぱり、いつの間に?の映画。

 ちなみに一本目も二本目も、町山智浩さん情報で存在を知った映画です。

 いつもいい映画を紹介してくださるので、ありがたいお方です。

 

 この映画、またも邦題があんまりです。

 原題は「Boy erased」。でも、なんて訳せばいいのか。

 過去分詞を形容詞として使っているのなら名詞の前に置くと私は習ったのですが、それをフランス語のように後ろにくっつけたということなら「消された少年」でしょうか。

 もし、目的語の欠けた破格の文法なら「少年は消した・・・」でしょうか。

 冠詞がないのがどういう意味になるかわかりません(形容詞と考えた方が正しい?)。

 

 ただ、映画の内容を考えると、「受動」から「能動」へ・・・なんですよね。

 とすると、どちらにもかけてある(「消された」から「消した」へ)タイトルかもしれません。

 だとしたら、洒落たタイトルです。英語に詳しい方に教えていただきたいです。

 

 映画の冒頭。

 主人公と思われる男の子の幼いころの成長をヴィデオか8mmで撮影した映像が流れます(これがまた可愛い時期の映像!)。

 これだけで、主人公の男の子が「どれだけ大切に育てられてきたか」「ごく普通の男の子として育てられてきたこと」が台詞なしで伝わります。

 こういう映画的処理をみているだけで、「ああ、いい映画の予感!」とわくわく。

 

 この映画の主人公、アーカンソー州に住んでいます(映画冒頭、車のナンバーがわざわざ大写しになります。そこに「チャンスopportunityに恵まれたアーカンソー」と書いてある)。

 まさにドン・シャーリーが命をかけて廻った南部の一部ですね。

 保守的で、キリスト教を強く信仰している地域。

 

 アーカンソーの有名人を調べるとスポーツ選手ばかりです。

 憶測ですが男性がマッチョであることが常識になっている場所なのかもしれません。

 アメリカの青春映画でよく見る、アメフト男子がカースト一位の世界。

 

 よりによって「そういう場所」で、かつ牧師を父親にもつ男の子が、自分が同性愛者であることに気づく。

 そういう話です。

 

 この映画の肝は、同性愛矯正/強制治療の部分です。

 詳しくは書きませんので、ご覧ください。

 家族療法ごっことかゲシュタルト療法ごっことかをさせられます。

 あと意味不明な「形から入る」療法(? 笑うシーンではないけど笑えます)とか。

 いかにも素人さんぽい「話せばよくなる」「感情を解き放てばよくなる」思考で組み立てられたプログラム。

 それでダメだと押さえつけての神への祈り。

 カラス神父なんて、もっと大変な子を扱ったのに全然暴力的でなっかったですよ!(←意味の分からない方は検索してください) 

 

 主人公は走る車の窓から手を出して風を感じる癖(?)がある。

 「ある世界」の内側にとどまることができないかのように。

 映画の前半では、母親に注意されて手をひっこめます。

 母親は「手を出すこと」で息子が不幸な目にあうかもしれないと心配しています。

 

 あることがあって、母親は自分も言いたいことを抑えていたことを恥じ、息子に謝罪する(南部の女性の位置づけをさりげなく描いていると思います)。

 そして、その後の母親は「手を出すこと」を冗談めかして、息子とやり取りできるようになる。

 

 そして、ラスト・シーン。

 彼は運転しながら、「自ら」窓の外に手を出す。

 感動的です。

  

 

 

ピーター・ファレリー監督「グリーン・ブック」  原題「Green Book」 2018年公開  日本公開2019年

 

ジョエル・エルガートン監督「ある少年の告白」  原題「Boy Erased」 2018年公開  日本公開2019年