微妙に仕事が忙しい。
本もなかなか読めない。読めても仕事関連のものばかり。
先日、ガタリの晩年の本を、薄いのに数日かけてやっと読了。・・・しかし、読みにくかった・・・。
本書も仕事関連で一部だけ読んでいたけれど、ほとんど未読なのがもったいなくて残りを読了。
ところで、何かにとんでもなく秀でた人は、何かにとんでもなく不器用だったりするのは、あるあるです。
ある指揮者、靴ひもを結べなかったとか。
本書はそういう方々を「支える」ことがどんなに大変かというもの。
先に一点だけ書いてしまうと、私としては、この世界にブラックホールがなくても全然構いませんが、アインシュタインの奥さんへの態度だけは許せません(←ちょっと何言っているかわかんない by 冨澤たけし)。
さて、本書で取り上げられるのは、コンスタンツェ(モーツァルト夫人)、クリスティアーネ(ゲーテ夫人)、コジマ(ワグナー夫人)、ミレヴァ(アインシュタイン夫人)、アルマ(マーラー夫人)、そしてカチア(トーマス・マン夫人)。
皆さん、そろいもそろって大変そう(もちろん、そういう方だけを集めた本でしょうが)。
内容はお読みいただくとして、対にすると面白いなと思ったので、以下、ランダムに。
夫の死後、何かから(って、夫に決まっていますが)解放されたかのように自由奔放に振舞ったコンスタンツェとアルマ。
しかし、二人ともに夫の生前は大変に苦労をしています。
特に「悪妻」コンスタンツェはとんでもない行状を繰り返すモーツァルトをそこそこコントロールしていたようで、本書を読む限りでは実際は賢夫人だったのではと思わせます。
「読書家だの政治通だの祐筆だのとひけらかしたがらない」(p66)ところをゲーテから愛されたクリスティアーネ。
周囲から不釣り合いな夫婦として、当時も後世も(!)「美しい肉の塊」などの明らかに性的ニュアンスを含んだ醜悪な悪口、陰口を叩かれた続けた(p 65)。しかし、夫には深く愛され、家事をうまくまわすことを生きがいにした明るい素朴な働き者の女性。
当時、スイス工科大学の新入生でただ一人の女性で、後の夫となる恋人の仕事にかなり貢献したはずのミレヴァ。
アインシュタインは明らかに彼女の才能に惹かれた。しかし、結婚生活は、当初こそ研究のパートナー役だったが、徐々に家事雑事に追われるだけの生活になり、知的活動に思う存分集中できてどんどん業績を積み重ねる夫に取り残されて、最終的には捨てられる(!!!)。
子供をほったらかしにして「自分の生/性」に生きたアルマ。
両親にほったらかしにされ、親代わりの女性にも徹底的に服従することを叩き込まれたコジマ。
神経質で癇癪もちの夫に苦しめられ、放置されるか、愛情を伝えられるとしても夫の都合のいいタイミングなので、本人たちからすると唐突でしかなかった(きっと、心理的には振り回されている感じしかなかったでしょうね・・・・)コジマとアルマ。
夫の成功=自分の成功だったコジマとアルマ。
当然ながら、二人とも夫の死後はその正統な相続人として権勢をふるいまくります。
当時の女性観「家の秩序を守る」に忠実だったが、それを楽しんでいるかのようにこなし、天才の夫に対しては微妙な距離をとった節のあるクリスティアーネ。
叩き込まれた奉仕の精神で完璧なまでに家事をこなそうとして精神のバランスまで崩し、夫の才能を敬愛してひたすらワグナーに服従したコジマ。
実務に優れて家事を滞りなくこなした優秀な「主婦」だったクリスティアーネ。
彼女は貧しい官僚を父にもち、無教養で(とされているが、識字率の低かった当時、少なくとも彼女は本を読みスペルミスなく字を書いていた。そもそも地頭が良かったようで、ゲーテは時々仕事のことで相談していたらしい。ダム「クリスティアーネとゲーテ」法政大学出版局)、当時なら中流の下くらいの階層の娘。
一方、同じく完璧なまでに家事をこなし、「賢いせいで(略)『知識人』(略)『青鞜』のような才気ばしった女」と思われがちだが、実際は「自然で当たり前に『良い人』」と娘に評されたカチア(p232)。
彼女は大学教授の娘。知的で教養豊か、結婚した時はおそらく社会階層としては夫よりも上流の女性だった(数学を学んでいた(!)大学生時代にトーマス・マンに道で声をかけられた。立派なナンパです。当時はマナー違反だったそうな(p218))。
猛然とアタックされて戸惑い、相手と距離をとり(本当に引っ越してしまう!)冷静に相手との関係性を考えるミレヴァ。
私の勝手な憶測ですが、彼女は「女性として」も「一人の人間として」も強い劣等感を抱いていたのだろうと思います。容姿は特別すぐれておらず(と本書に書いてあります・・・私の意見ではないです!)、足に障害があったために小さいころからいじめられ、内気な性格もあって周囲に溶け込めない幼少期を過ごした、しかし賢い女の子。
そんな女の子が青年期に達し、突然、自分を「女性」として扱われたら、当然、感情的に動揺したのではないでしょうか。
対するアインシュタインは、とにかくアタックし続けました。
そういうことのできる精神的逞しさは、羨ましいといえば羨ましいです。
同じく、自分の父親くらいの年齢のマーラーに、突如、猛然とアタックされ、彼の芸術への態度に対する敬愛はあるものの、その人間性(本書では触れられていないが、たぶん<男性としての魅力>も)が掴めずに悩み、戸惑い、友人にも相談して慎重な態度をとったアルマ。
知的な二人の行動が似ているのは興味深いです。ちなみにカチアもかなり慎重だったようです。
うーん・・・・・「天才」という言葉がついていますが、凡才に過ぎない私(たち)はどうでしょうか。
別にフェミニストを気取りたいのではないです。
読んでいて、いろいろ反省しました。
私は、きっと家内をはじめとして、先輩、同僚、後輩の女性の皆さんに、大変なご迷惑を、しかも性質の悪いことにまったく無自覚に、おかけしているに違いないのです。
この場をお借りして、お詫びいたします・・・・・
最後に落ち葉ひろい。
驚いたのですがワグナーって身長が153cmだったのですね(p107)。
漠然とすっごい堂々とした体躯を思い浮かべていました。
しかし、ワグナーは「女性のことについては、ゲルマン神話とおなじくらいよく知っていた」(p110)という作者の言葉。
この本、あちこちで皮肉が効いていて面白いのですが(ワグナーの自伝に触れたところでさらっと書かれた形容詞が笑える(p110))、この表現もいい塩梅に意地が悪くて、私的にはこういうところも楽しめました・・・てか、私も底意地が悪いのか。
あと、古典的形式で物語をつくり、当時流行していた頽廃を嫌い、私的にはどことなくマッチョなイメージをもっていたトーマス・マン。
てか、「ドイツとドイツ人」のような講演本しか読んだことがなく、講演はアジっている文章なのだからそう思えてしまったのでしょうか。
考えてみると、私は彼の小説を「トニオ・クレーゲル」しか読んだことないです・・・・・。
大学に入ってから読んだので「学問(というか芸術)」と「日常生活」の相克というテーマは、青年期の私にはどストライクでした。
あ、でも「ヴェニスに死す」を書いんだっけと思うと・・・・と本書を読んで思い返した次第です(すいません、読んでないのでヴィスコンティの映画で内容を知りました)。
というのも・・・・
声をかけたのはいいものの、慎重に慎重を重ねてカチアとの距離をじりじりと詰め、周りがじれったくて「男らしくアプローチしろ」と助言したという結婚までの経緯(p221)。
カチアの母親がトーマス・マンのことを「あの人は(略)かなり女々しい(ママ)男です」と手紙に友人に書き送っていること(p228)。
自分の健康ばかり気にして、あっちの調子が悪い、こっちの調子が悪いと、四六時中、こぼしていたらしいこと(p228)。
なんか・・・・・ちょっとがっかりです。
それと彼が同性愛傾向をもっていたことは日記から知られています。
私は同性愛のことは全然気になりませんが(ホモソーシャルでちょっとミソジニ―風味・・・あ、蔑視はしてないですよ、苦手なんです・・・の映画とか大好きだし)、「えっ」と思ったのが青年期に達した自分の息子の裸をみた時のことを、日記に「美しい」「輝くような肉体」とか書いちゃっていることです(p239-240)。
ドン引きです。
かなりがっかりしました、トーマス・マン。
これの「気持ちの悪さ」、異性愛の父親が自分の娘の裸を見て「その肉体を美しいと思った」とか言ってるのを想像していただければ・・・うわー!!書いてるだけで、居てもたってもいられない!!
・・・しかし、こんなに大変な男たちとどうやって、寝食を共にし、感情を共有し、なんでもない日々を過ごすことができるのか。
次のカチアの言葉に尽きるのでしょう。
カチアの娘は、カチアが黙々と義務を果たして自分のことを一切考えない様子でいることに疑問を持ち、そのことを彼女に尋ねたのだそうです。
カチアは、なんとこたえたか。
「なぜ考えなくちゃいけないの?私のことはどうでもいわよ」(p250)
・・・・・本当に頭が下がります。
フリードリッヒ・ヴァイセンシュタイナー「天才に尽くした女性たち」 山下丈訳
2400円+税 278ページ
阪急コミニュニケ―ションズ
ISBN 4-484-04101-4
Friedrich Weissensteiner: Die Frauen der Genies
Franz Deuticke, Wien, 2001