前日のブログの本の付録に、シュピールラインの「生成の原因としての破壊」論文がある。
備忘録。
シュピールラインは「性の問題に取り組む中で」「一つの問いに興味を覚えた」という。
それは性にまつわるネガティブな感情、「不安や嘔吐」である。
性に否定的感情がまとわりつくことについて、性が道徳的頽廃に結び付いている(シュテーケル)、性的排泄が生命の無い排泄物と共存している(グロース)、あるいは抑圧機序(フロイト)などの諸説が紹介されるが、もっとも長い引用はユングの説である。
ユングは「生産的」であることは「自己を破壊すること」である、というのも生命は生殖で次世代を生み出せば、必然的に役目を終えて消えていく、だから「エロスの願望の断念には死の空想が付きまとう」という。
これを受けてシュピールラインは「ユングでは死の観念と性の観念は一致しておらず対立している」が、若い女性たちを観察すると、彼女たちは「初めて思いを遂げられそうなった時」に「不安感」がでると指摘する。
「望んでもいないことを」「強いているのは自分自身の愛の炎ではないかという不安」であり、その後に「これがすべてか」「その先はないのか」という気持ちになるという。
言い換えると「性に駆動される困惑と不安」「性行為の先には何もないという空虚感」だろうか。
その後、生物学的知見の議論、生殖、生殖細胞の働きについての議論が続き、第二章から個人心理からの考察となる。
心的体験についてシュピールラインは以下のような面白い説明をする。
「あらゆる過ぎ去ったものは、私たちには未知の原事件の比喩にすぎず、この原事件がその類似物を現在に求めている」
意味がとりがたい。
私なりの理解。
感性、悟性で把握できない原出来事Urereignisがある。
そして過去の出来事は、原出来事の比喩Metapher<= meta間をーphero往来する>、つまり原出来事が「時間軸を移動したようにみえている」ものである。
一方、現在の出来事は、原出来事にあくまで<似たもの>に過ぎない。
つまり、過去の出来事と現在の出来事はどこかで通底しているということだ。
これはフロイトの「無意識は無時間である」のシュピールラインなりの言い換えかもしれない。
フロイトと異なるのが意識についても、本質的には無時間性があると主張しているようにみえる点だ。
「存在しない過去」を主張したレヴィナスに似たことを述べているように見える。もちろん文脈は全く異なるが。
さらに「無意識においては過去への同化が起こっており」「この過去から現在が分化しているのである」とシュピールラインは述べており、無意識と過去、意識と現在と結びつけけて論じている。
ただ以上の理解で間違いではないのか、まったく自信がない。
ついで、フロイトの自己保存欲動、自我、ユングのコンプレックスの説明に移る。
最終的にシュピールラインは「個体Individiumの基本的特徴は、分割体Dividiumであることだ」と結論する。
シュピールラインは無意識だけでなく意識も含めて複合体と考えていたらしい。
そして、フロイトの統合失調症に関する理論から、シュピールラインは自我心Ichpsycheと種族心Artpsycheの対立というアイデアを提示する。
自我心は定義がないが、無意識も含めた「私全体」のことのようだ。
Artpsycheは”種族”という邦訳だと民族などを想起してしまうが、もっと広く人間という種という意味だと思うので、ここでは「人間種心」とする。
要は私たちの心は二重化されていると主張しているのだと思われる。
さらに「自我心は快しか望まない」が「人間種心はわたしたちが何を望むか」を示してくれるという。
そして人間種の願望Artwunscheは自我の願望Ichwunscheを同化しようする、つまり人間種は自我を取り込もうとする、ある意味、自我を否定する機能をもつという。
一方で、同化された自我は断片化されつつも、新たな観念(邦訳は観念。Vorstellungなので表象の方が適当ではないか)として浮かび上がるという。
私なりの理解。
種の維持のために個は死ぬ運命にある。卵を産んだ鮭が死んでいくように。
しかし、種は個人を飲み込みつつも、新たな個人像を生んでいく。
この後、「トリスタンとイゾルデ」や「ツァラトゥストラ」「ロメオとジュリエット」、ビンスワンガーの症例などが取り上げられる。
ここでの議論がまた私には理解しずらいが、ユング論文からの引用のアンナちゃんとおばあちゃんの会話は何とかわかる。
アンナ「(略)また若返るのじゃない」
祖母「いいえ、(略)死んでしまうんだよ」
アンナ「それからまた小さい子供になるの」
つまり、死と生が地続きだという考えがあることを示したいらしい。
死と生の順番で、生と死ではない。
そしてシュピールラインは人間の心理に二つの方向性があるという。
一つは根源から分化して、現在に適合した自我を生み出す。
一方は逆で、人格的なもの(邦訳では「個人的」)das Personlicheの内容を、人間種die Artの形式に変化させるもの。
これを同化傾向または融解傾向とシュピールラインは呼ぶ。
自己保存欲動は自我を分化する傾向に対応する。
種族保存欲動、つまり生殖欲動は、融解傾向、同化傾向に対応する。
最後の章は、彼女の理論を証明するために古今の神話が挙げられる。
この箇所で、彼女の主張が最も理解しやすく表現されている文章がある。
「生自体のうちに死の起源がある。子供の誕生と発達は、母親を犠牲にしてなされる。母は出産のときにもっとも危険にさらされる。母は傷つけられるのである。母が完全に破壊されてしまわないように、死の構成要素に対してひとつの代理物が設けられなければならない」
彼女の結論:
生殖の結果としての生は、死、破壊を前提としている。
生殖の欲動は、生成と破壊の両面性がある。
以上の議論、全体的には生物学的寄りでフロイトに近い。
一方、論理の飛躍があっても断定して議論を進めてしまうところや、症例より神話などを持ち出すあたりはユングに似ている。
フロイトの脚注「私には理解しがたい論文・・・」は、あながちフロイトの優先権へのこだわりだけでなさそうである。
メモ:
彼女も無意識をUnterbewusstseinといいかえようとしていた(p107)。
1922年の論文、パパとママという言葉の起源。
最初の言葉の起源は吸引行為にある。
乳房から口を離された後も呼吸行為が続くと、mo-mo(oにウムラウトがつくのでミューミュー)という音になる。
ここからママという快を与えてくれる対象を呼び出すことにつながる。
さらに赤ちゃんが満足すると、Po-Po,bo-bo(それぞれoにウムラウトがつく)と言いながら乳房と戯れる。
パパという語は満足したときに出現する。
言い換えれば、パパは悦び、ママは空腹による悲しみに関係している。
→ カロテヌートはメラニー・クラインの「よい乳房」「悪い乳房」を先取りしていると評価(p329-330)。
乳房と無関係とされることの多い「パパ」を母乳と結びつけている点、「パパ」「ママ」という語のもつ感情的意味まで議論している点も面白い。
この原基的母子関係や父子関係が、その後、どう展開するかまでシュピールラインに議論してもらいたかった。
シュピールラインの死、残念である。
村本詔司訳「生成の原因としての破壊」 p363-413(「秘密のシンメトリー」内)
Spielrein, S: Die Destruktion als Ursache des Werdens. Jahrebuch fur psychoanalytische und psychopathologische Forschungen Bd. 4, Halfte 1. 1912