ザビーネ・シュピールライン。
ロシアのユダヤ人ブルジョア一家で、1885年に生まれた。
幼いころから知的に優れ、夢想を好む少女だったという。
しかし、7歳から強迫症状が始まり14歳で悪化。18歳ころにはうつと興奮状態も呈した(p245)。
このため、1904年からユングの治療を受け始める(シュピールライン 19歳)。
1906年に治癒で治療終結(p248)。その間の1905年(20歳)にチューリッヒ大学医学部入学。
1911年に学位を取得。この大学生活の間の1908年あたり(23歳)から、ユングとの恋愛関係が始まったらしい。
ユングは、同じブルジョア出身の「普通の女性」である妻との生活に、満足を得られなくなっていた(p288)。
彼には、愛情だけでなく知的な生活が必要だった。
実際、彼はシュピールラインに自分が「嵐のような、たえず変転する愛の幸福なしに生きてはいけない」と書き送っている(p290)。
フロイトは40歳で結婚には存在理由がないと諦めた(! この禁欲と諦念が彼らしい)が、ユングは諦めなかった(p286)。
1912年(27歳)、1910年ころから構想されていた(p52)論文「生成の原因としての破壊」を発表。
この論文はシュピールラインにとって重要なもので、完成間際の時期の日記でユングを「私の思想を盗む男」と呼び、死の本能概念の優先権を気にしている(p61)。
しかし、この論文、発表当初、フロイトは真面目に取り合わなかった(p257)。
こうして、さんざん2人の男に振り回された彼女は、中欧で精神分析家として活躍し、1923年(38歳)にロシアへ帰国。
その後、ロシア革命のごたごたで足跡が途絶える。
さて、ユングとの関係である。
そのまま本書の記載を引用する。
・ユングは、自分の妻のことを<自分の(ユングの)将来性を気にして結婚を躊躇したような女性>とシュピールラインに説明していた(p28)。
・ユングはシュピールラインに「君は母親となるためでなく、自由恋愛のために生まれてきた女性」だと言っていた。彼女は日記に「私は(この言葉に)なんといえばいいのか」と困惑した調子で書き記している(1910年12月21日 p65)。
・ユングはシュピールラインの母に、彼女との関係が<友人になってしまっている>のだが、その理由は自分が医師として報酬を得ていない、つまり医師患者関係になっていないから当然で、なので<医師としての報酬を支払ってほしい>という手紙を送りつけた(1909年フロイトへの手紙 p166-167)。
・ユングはフロイトに、自分は彼女の被害者で中傷されているなどと、何回か手紙を書き送っている(p277,299)。
30歳くらいの男盛りで「苦しみを癒してくれた先生」。
20歳そこそこの若さで精神的に病み上がりの「元患者」の女性。
この関係について、私は何もコメントしたくない。
ユングは「特異な性的魅力」をもっていたらしく、彼の知人は「もっとも狂信的な弟子は女性たちだった」と述べている(p269)。
さらにユングの妻でさえ、夫について「女性たちはみんな、自然と彼に恋をする」とフロイトに書き送っている(p269-270)。
だからといって、ユングの振る舞いは全く許されるものではない(医師として以前に、一人の男としても)。
しかし、自分の夫について「女性はみんな彼に恋をする」と書かなければならなかったユングの妻の心情を思うと、とても胸が痛む。
さて、フロイト。
このスキャンダルにどう対応したか。
一言でいうと、ほとんど見て見ぬふりをした。
さらに、ユングとの関係が完全に決裂した後、フロイトはユングの影響を振り払うために彼女に分析をすると申し出ている(1912年 p309)。
フロイトも、自分の復讐心のために彼女を利用しようとしていたのである。
この辺りについて本書では、ベッテルハイムが面白いコメントを書いている。
ユングとフロイトが出会ったとき、フロイトが失神したという有名なエピソードがある。
この出来事は、一般的にユングの反抗(精神分析のジャルゴンでいう「父に対する死の願望」)が理由とされる。
ベッテルハイムは<父親を超えようとする息子の反抗心>への反応が失神ならば、どれだけの男性が失神しなければならないかと皮肉めいた指摘をする。
ベッテルハイムの考えでは、すでにシュピールラインとユングのトラブルを知っていたフロイトは、ユングが単に思想的に反抗しているだけでなく、恋人を裏切ったように自分を裏切るかもしれないと恐れたのではないかと推測している(p440-441)。説得力がある説だ。
ところで、シュピールラインは、もしもこのようなことに巻き込まれなけば、どのような人生を送った可能性があるだろうか。
言い換えれば、彼女の本当の望みは何だったのだろうか。
1909年の日記の記載が興味深い。
彼女は「弟子たちを連れて、自然の中で教える」ことを夢想しているのである(p17)。
また、ピアジェがシュピールラインから分析を受けていて、その時のピアジェの発言が記録されている(p254-255)。
どうも、精神分析理論を「受け入れる」ように強要され、ピアジェがそれに抵抗するとシュピールラインの方から分析をやめてしまったらしい。
これでは精神分析でなくて「教えの伝達」だ。
また、シュピールラインはロシアに戻ってから、教育者とともに<子供の家>という治療ホーム(?)を作ったという(p343)。
私の勝手な憶測だが、シュピールラインの本来の望みは「知を伝え、教える」教師になることだったのではないだろうか。
何しろ名前が<遊びSpiel><純粋なrein>だ(ベッテルハイムはreinを<清潔>と解して症状と結び付けている(p428-429))。
子供たちと自然の中で戯れ、その最中に、ふと自然の摂理を教える若い女性の教師。
なんだかそちらの方がふさわしい気もする。
さて、この3つの出会いが何を生んだか。
カロテヌート先生は、ユングはこの恋愛の影響で「影」と「アニマ」概念を作り上げたのではないかと指摘している(p324-325)。
私はそれだけでなく、ユングとフロイトとの関係断絶にこの問題は大きく関係したのではないかと思っている。
フロイトが精神疾患の原因としている性愛のトラブルの真っただ中にユングはいたわけで、彼はトラブルになっているとはいえ性愛がもつ創造的側面を身をもって体験していたはずである。
性愛の問題を病因としかみないフロイトへの抵抗は、より強まったのではないか。
フロイトはどうか。
なんといっても、後に精神分析が大きく発展する契機となった「死の本能/欲動」概念形成のきっかけを得たことは大きい(p249-250)。
フロイトは彼女の考えを「彼女自身の問題」としてあまり評価していなかった(p257)。
フロイトは死の本能/欲動概念を提示した「快原則の彼岸」で彼女の論文を引用してはいるが、脚注に「私が完全に理解できない論文・・・」とわざわざ書いている。
もともとのアイデアは彼女のものだが、概念構築は自分が行ったのだと主張したいのだろう。
彼女はどうか。
その後の経緯はともかく、彼女が治癒して苦しみから解放されたのは事実である。
そしてフロイトとユングという離れるべくして離れた2人を引き離す媒介(?)となった。
このことは大きいと思う。
そして、精神分析未開の地ロシアで、おそらく先駆者として活躍したのだろう。
ただ、もし時代が許せば、精神分析と分析心理学の両方を理解し、かつ男社会の当時、「女性=他者」という稀有な存在として、ロシアを「第三の心理療法を生み出した地」にしていた可能性があるのではないかと思う。なんとも残念だ。
3人の生涯を追うと、幸福か不幸かは別にして、「人との出会い」は「考える」という作業において本当に重要だと思う。
しかし、歴史的な制約はそれ以上に大きいとも思う。
アルド・カロテヌート「秘密のシンメトリー ユング/シュピールライン/フロイト」 入江良平、村本詔司、小川捷之訳
みすず書房 472ページ
3800円+税
ISBN 4-622-03045-4
Aldo Carotenuto
Diario di una Segreta Simmetria.
Astrolabio-Ubaldini, Roma, 1980