家族で映画鑑賞。

 私なんぞ足元にも及ばない教養人の友人が、家族で楽しまれたというので刺激されて読んだ本書。

 私の関心は、映画鑑賞としてはひねくれているが「どう映画にするのか」だった。

 

 原作を完読したのは私だけhttps://ameblo.jp/lecture12/entry-12534569249.html?frm=theme。あとは子供が一人、読み始めの状態。

 なので、未読と完読で感想が異なり、楽しい家族のおしゃべりタイムになった。

 

 以下、ネタバレがあるので未読、未見の方はお控えくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さて、映画版。

 限られた時間の中で原作の芯を捉えるように、筋の前後や登場人物の言動をかなり思い切って変更している。

 

 原作は、栄伝さんが、もともと「欲のない」性格なのと、音楽活動で生きていくかどうかの選択から無自覚に逃げていること、それにあまりにも才能が有りすぎてコンクールという本来は競いあうはずの場でも楽しんでしまうという設定なので、物語全体の雰囲気が朗らかだった。

 ただ、ギフテッドな塵くんやまーくんの演奏を聴き、奏さんとの交流の中で、「音楽家として生きるのか」という決断に迫られていることを時に自覚させられ、ふっと恐怖を覚えることがあるという流れになっていた。

 

 で、映画は、栄伝さんのこの恐怖感や迷いの部分だけを切り取っている(課題曲「春と修羅」のカデンツァは、原作では「もう、いろいろアイデアが浮かびすぎちゃって、楽しくて困るー」なのに、映画では逆に「何も思い浮かばない・・・どうしよう・・・」になっている)。

 そのため、全体にとてもシリアスで緊張感がある点で、だいぶ違う。

 あーちゃんとまーくんの「ほのかな感情交流」もカットされ(家内と子供は「あった」というが、私はなかったと思う。うーん・・・私はやっぱり鈍感なのでしょうか・・・・。少なくとも原作よりは薄味)、明石への雅美の淡い気持ちもカットされるので、なおさら緊張感がある(しかし、雅美さんのキャスティングは・・・・・)。

 

 また、マサルくんと塵くんは、原作では、もうちょっと「完璧」なのだが、指先が切れても演奏をさらっている塵くんとか(今さら切れないでしょ・・・毎日片時も離さないで木製鍵盤をたたいているはずだから)、うまくルバート部分を処理できずにいらいらしているまーくんの描写(これはあーちゃんとの関係性から重要なシーンなのだが)など、彼らを「飛びぬけた天才」から幾分、こちらの世界に寄せている印象。

 

 原作だとギフテッドな2人に影響されて、元ギフテッドな一人がギフテッドな世界に帰還し、もう一人がギフテッドな世界へ挑戦することを決意するという筋だが、映画では、互いが影響されているように描かれていて、これはこれで良い感じ。

 

 いつの間にか師匠の完璧さの追求に嵌って身動きの取れなくなったマサルを、連弾で原点回帰させるあーちゃん

 孤独な中で師匠からの宿題を追求していた塵くんは、同志のあーちゃんを見つける(あるいはあーちゃんの演奏で、塵くんは宿題の答えがわかる。「先生、見つけたよ・・・」という科白の意味が分からないので、どちらか保留)。

 栄伝さんは、ほかの3人からの影響で、自分の音楽を再発見する。

 明石も、映画での台詞通り、3人から演奏の喜びを見出す。

 

 とにかく、あの長大な原作をよくここまでまとめたなあと感心。

 また、うるさ方のクラシック・ファンの方におかれましてはどうお聴きになったか、演奏をどう評価なさるかは別として、登場人物の性格を音楽演奏(音楽でなくて。「なんとかのテーマ」は昔からありますね)で「わかりやすく」見せた映画って、今まであったけか・・・という新鮮な驚きもあった。

 原作と別物として十分に楽しめる。

  

 

 私が「おっ」と思ったのが、やはり映画的な処理。

 

 あーちゃんの服装。

 前半、ほとんど青いコートを着ているが、後半、だんだん赤いインナーのニットのシーンが増える。

 「冷たい」「さめた」色から、「中に」秘めていた「熱情」の色へ。

 

 それから「雨」は映画文法では悲しみの表現だが、外が雨で、明石と亜夜が対話するシーン。

 誰が泣くのかと思うと、栄伝さん。

 亜夜さんは「音楽が楽しいのか」分からなくなっている。

 雨の中、彷徨う亜夜さん。

 そして、こけむした馬のような形のオブジェを見つける。

 そこから黒い<馬の足音>=雨のしずくの音へ(原作では、雨のしずく音は馬のギャロップのようだと、幼いころの栄伝さんは感じていたという描写がある。映画ではまるまるカット)、断片だった母親との甘い思い出が戻り、最後に「世界の音を楽しむ」、彼女の原点に回帰する。

 つまり、ここで、悲しみの雨→雨のしずくと馬のギャロップ→母親との思い出→世界に満ちている美しい音楽的な音としての雨音と、雨の意味がずれていっているのである。

 これは原作にはまったくないエピソードで、監督の脚本にしかない。

 その後、演奏が止まってしまった時のコンサートと同じ黒いドレス(原作では銀のドレス)を着て、彼女は演奏する。

 たぶん始めの「黒」は母への追悼、あるいは天才少女であることとの決別だったのかもしれないが、二回目は「元天才少女だった過去」からの決別を意味しているのだろう。

  

 他にも、余計な説明をせずに、楽譜だけで明石ののんびりとした家庭生活や、塵くんの天才ぶりをさらっと見せてしまうのも映画らしいシーンだった。

 

 音楽の変更もあった。

 プロコフィエフのP協奏曲がマサルと栄伝さんで逆になっている点はわりと指摘があり、興味深い考察をされているブログを拝見したので、検索してくださいませ。

 私も、師匠から、ナイーブで、ナルシシスティック(ここは字幕にない!)なエゴを捨てろと言われたナルなマサルくんが演奏するのは、やはりプロコフィエフのナル全開な3番の方がいい気がするが、「再覚醒」を描くための映画文法としては、爽快感をもたらすあの選曲でよかったのではないかと思っている。

 子供たちも、「あの曲、かっこよかった!」「あの曲、いいね!」と大喜びで、「わかりやすい」ようだ。

 

 あと、連弾のシーン。

 原作では「Fly me to the moon」を演奏するのが、映画では「Paper moon」に代わっていた。 

 前者は普通に恋の歌で、後者は「嘘でも信じれば、本当(のよう)だよね」という歌で生々しい恋愛の歌ではない。

 音楽演奏はそもそも恍惚感を伴うものだから、夜の連弾のシーンは艶めかしくなるだろうなあと思ったら、やはりそうなっていた。

 あのシーンでは、恋の歌は避けた方がいいかもしれないし、また(自分の才能を)「信じればそれは本当になる」という解釈は、本作のテーマと関係しており、いい選曲だ。

 

 

 私が興味があったのは、未読の方が映画の「馬」をどう解釈するかだった。

 原作を読んでいる者は「雨のしずくがギャロップに聞こえる」のことだよねーとわかると思うが、映画ではその点をまったく説明していない。

 

 で、家内。「馬は母親ではないか」

 子供1。「馬は亜夜の音楽そのもの。彼女が音楽復帰を決意したところで、走り始めている」(←馬が走ったり、走っていなかったりしているか、私は気付かなかった。これから鑑賞される方で、ネタバレを躊躇わずにこれをお読みの方・・・・って、いらっしゃるのか・・・・てか、誰がお読みなのか、これ・・・・に、ご教示いただきたいくらい)

 子ども2。「馬はなんだかわからない。あと遠雷が何を表しているのか。蜜蜂は<世界の音>だとして、遠い雲の雷は不吉な感じだった」

 そのほかのこども。「うーん。寝ちゃったからわかんなーい」 

 ・・・・・そうね。あのさー、君のいびきを消すために、私は大変だったんだよ!

 

 さて、原作の馬のギャロップとは違った意味合いがあるのでしょうか?

 わざわざ「黒い」馬だったし。

 

 ちなみに、辛辣な評が子供1から。

 「ラストがわからなかった。亜夜は音楽の喜びに目覚めたのか、それとも音楽の喜びは諦めて、たとえば完璧さだけを求めるとか、そういう形で開き直っちゃったのか、あの表情ではわからない」

私「いや、普通に再覚醒したんでしょ」

子供1「うん、普通に考えればパパの言うとおりだけど、やっぱり納得できない」

私「うーん、そういうのも面白いけど、ちょっとホラーみたいだねえ」

子供1「なんかダークサイドに落ちて終わったみたいな感じかなって」

 

 ・・・・・・あのー、それは、松岡さんの演技がアレということですか?

 まあ、後半から台詞が極端に切り詰められているからねえ。難しい演技でしたけどね。

 てか、私が子供たちに変な映画ばかり見せているのがいけないのでしょうか。

 

 というわけで、こんなに感想を書けちゃう、面白い映画でした。

 

 

石川慶「蜜蜂と遠雷」  2019年公開