備忘録。

 

 驚いたのが「生きがい」という言葉、日本語にしかない(p14)ということ。

 神谷先生によれば、英独仏語で適当な訳語がないという。

 

 

 本書では、生きがいと、生きがい感を分ける。

 前者はその対象について、後者は状態を指すと定義される(p15)。

 

 生きがい感は「よろこび」であり、副産物として「信頼」「未来への希望」「利他性」を駆動するという(p18、23-24)。

 さら生きがい感は幸福と似て非なるもので、幸福よりも「自我の中心にせまっている」(p31)「未来に向かう姿勢がある」(p39)「価値を巻き込む」(p32)点で区別される。

 

 私なりに言い換えると、幸福は何かを達成する/した時の感情で、生きがい感は達成するべき何かを見出した/見だしている時の感情となるだろうか。

 そして、達成するべき何かとは、神谷先生の言葉を使えば「使命」(p38)だ。

 神谷先生は使命によって生きがいを得た具体例として、ミルトンを挙げているのが面白い(p38-48)。

  

 生きがい感はどのようなものから構成されるか。

 生存している充実感への欲求、変化への欲求・未来性への欲求、反響への欲求(承認欲求や社会的所属欲求なども含む)、自由への欲求、自己実存への欲求(業績や自尊心、いわゆる「投企」と同じであるという)、意味や価値への欲求の、6つを神谷先生はあげている(p54-75)。

 そして、これらを満たす具体化したものが、生きがいの対象となる。

 たとえば、充実感への欲求をみたすものでは、芸術活動や日常生活のささやかなよろこびなどである(p88)。

 

 神谷先生のまとめ方は私には理解しづらい。

 自分なりに抽象化すると、時間軸(縦断面)として、過去(業績)、現在(充実)、未来、また水平構造(横断面)として反響、最後に自己における、自由、意味と、まとめられるだろうか。

 

 一方、これらを奪うものが、運命、病、夢の破壊、死(p94-109)。

 その結果、私たちは破局感、足場の喪失、価値体系の崩壊、疎外、孤独、無意味感、絶望、否定意識、自己嫌悪、不安、苦悩、悲哀などに苛まれるという(p112-136)。

 このあたりの議論もやや重複が多く、すっと入らない。

 

 

 では、そこからどうやって立ち直るのか。

 神谷先生の表現を使うと「新しい生きがいはどうすれば得られるのか」。

 

 一つ目は反抗。社会を変えようとする運動や創作活動があげられる(p142)。

 たとえば交通事故でお子さんを亡くされた方が、道路交通法を変える運動をなさる例などが該当するだろう。

 

 もう一つは、受容。いわゆる運命愛amor fatiのことで(p146)、まさに運命をそのまま引き受けることだ。

 

 最後が融和。悲しみと、己の肉体と、過去と、死が対象になる(p149-158)。

 たとえば悲しみなら、悲しみの感情を自然に味わいつつ、具体的な短期的目標を立てる。

 

 こうして、停止していた時間、悲しみの中でいわば「無時間」だった状態から離脱し、未来に向かって時間が動き始めるのだという(p163)。

 

 

 神谷先生の文章は無駄な難解さがなく、ご議論も、一見、良い意味で常識的だが、はっとさせられるアイデアがある。

 この「融和」がよい例だと思う。

 普通、悲しみに対しては「受容」としたくなる。

 「悲しみを受容しなさい」はクリシェだ。

 しかし、神谷先生は「悲しみとの融和」と表現されるのである。

 

 「受容」と「融和」の違いについて深く掘り下げられていないのだが、語感から勝手に推測すると、受容だと文字通り受動的で、さらに融和に比べれば「受容する対象」は「私」とはあくまで「別のもの」「異物」であるように思われる。

 「運命」なら私がどうにも動かすことのできない一種の「異物」かもしれない。一方、悲しみや、肉体、過去、死は「私」に属する。

 「私の」悲しみ、「私の」肉体、「私の」過去であり、死は究極の個別的な「私」だけの事象、まさに私しか「私の死」を経験できない。

 いずれも私の在り方そのものと不可分である。

 「私ではなくても経験するかもしれない」運命と異なり、「この私」しか経験できないものだ。

 そして、私が能動的な覚悟をもって「私のもの」にしなければならない。

 神谷先生はそれを「融和」と表現されたのだろう。

 

 また、「己の肉体」を取り上げたところにも独創性を感じる。

 

 

 さて、人は新たな生きがいを得ると、どうなるのか。

 神谷先生によれば、生きていく上での目標が変化する。

 たとえば、ロヨラのような好戦的軍人が厳格な規律の修道士へ「代償」「変形」したり、ディレッタントな趣味人がカエサルやナポレオンのような偉大な政治家かつ軍人となる「置き換え」が起きる(p177-183)。

 さらに精神的構造の変化も生じ、水平的に人間関係を重視していく「社会化」、あるいは過去から未来の時間軸を意識する「歴史化」、思索や内省などを重視する「精神化」(ジャン・ヴァールが引用されていた)などが起こる(p186-203)。

 こうして私たちは、新たな生きがいを得ることで生きる目標が転換し、さらに精神構造さえも変化するのだという。

 

 神谷先生が最後に指摘されていて、わが意を得たりと思った点が、もしも人に変化が起きたとしても、それは実は「もともとその人の内部にあったもの」だというご指摘だ(p236)。

 

 いつも思うのだが、人の生き様は、当人や周囲の人間の微々たる「力」でどうにかなるものではないということだ。

 かといって、努「力」を怠ることはあってはならないと思うが。

 

 生きるとは、まことに難しい。

 

 

 

 

神谷美恵子「生きがいについて」

みすず書房     360ページ

1600円+税

ISBN 4-622-00631-6