カウンセリングで起きていることを、動詞から考える試み。
本書は14の動詞からカウンセリングについて論じている。
桑野先生がどのような学問的背景でいらっしゃるか存じ上げないのだが、引用文献から察するにユング派のよう。
ユング派は楽観的という印象があったのだが、治療目標で、場合によっては「病を深める」ことが必要と本書に書かれており、意外で大変に驚いた(p42-43)。
また単に病理を消すのではなく「病理の再評価」(p44)が必要とも書かれており、ラカン派のsavoir-y-fairと通じる印象がある。
共感したのは以下の記述:
他人のケースを事例検討などで聞いていると分かることがあるが、自身のケースは「分からない」(p94)
「ずれ」は動きを生む(p109)、「読み」は崩され、ひっくり返されるためにある(p173)。
ある講演会で、ヴェテランの精神分析家の先生が「何年も分析を続けているのに、今だに患者さんのことで発見がある」とおっしゃっていたが、この辺りのことを述べているのかもしれない。
私の宿題:
カウンセラーは「自分の話すことを相手にどのように聴かれるか」を「聴きながら話す仕事」(p153)
→ デリダの「自分の語りを聞く」につなげられないか。
「つなぐ/つながる」で、へその緒が「直線的」で、子宮は「器」的なものという(p137-138)。
へその緒は「つなぐ/つながる」に含まれる緩やかさより、もっと強い物理的(生物的)繋縛性を感じる。
へその緒も子宮も、ある月齢までの胎児にとっては生命に関わる。
そもそもへその緒の繫がりは一方的ではないか。
母親の血液を介して酸素や栄養などが胎児へ入り込む。
静脈血を除くと、胎児から母親に組織が入り込むことはあっても、母親由来に比べればわずかなものらしい。
またへその緒は胎児の首に絡みつくことがあり、出産時のリスクの一つである。
つまり胎児のあずかり知らぬところで生死を支配しているともいえる。
子宮は、母親から、あるいは外からみれば「器」だが、中にいる胎児からすれば「世界そのもの」もしくは「私の延長」である。もちろん、胎児には世界や私という概念はまだないだろうが。
「お腹の子とへその緒を通じてつながっている」とお母さん方や私もうっかり使う表現だが、考えてみるとかなり母親目線なのかもしれない。
胎児からすれば「つながる」となどとった生易しいものでなく、それなしでは生きられない「縛られている」と状態といえなくもないかもしれない。
似た概念で、ビオンやウィニコットのholdingやcontainがあるが、これらは離れることができるので、やはり質が異なると思う。
もう少し考えたい。
本書に対しての私なりの異論:
「症状が消える」と考える人は「今」の連続上に「未来」があると考えている(p51 「待つ」)。
これは逆ではないか。
「今」がこのまま未来まで続くと考えることは「今、現にある症状がこのまま」を意味する。
だから、将来、今からは想像もできない変化が起きる可能性を信じられる人が、「症状が消える」人だと思う。
実際、患者さんに思いもよらない環境変化が起こり、状況が好転することをしばしば見てきた。
私たちに出来ることは、そのような状況変化を患者さんと一緒に辛抱強く待ち、それまで患者さんを何とか支え続けることだけではないか、それも立派な治療ではないかと能力の乏しい私は思う。
桑原知子「カウンセリングで何がおこっているか 動詞でひもとく心理臨床」
2300円+税
日本評論社 217ページ
ISBN978-4-535-56294-3