ぷへー。

 

 もう一回。ぷへー。

 

 本書を読後、頭から離れない、そして思い出すたびに、にやにや笑いの止まらない秀逸な擬音語(?)、声(?)。

 

 あの蓮實大先生(以下、大先生)の小説。ぜったい仕掛けが張り巡らされていると過度に緊張し、深読み体制で臨んだ本書。

 IVから、そういうことはどうでもよくなった。というか、IVから大笑い。

 この場面。私がプロデューサーなら、モノクロ時代にコメディーを撮っていた市川崑をあの世から召喚して監督してもらう(無理ですね)。

 

 何しろ「表層批判」を宣言された方の小説なので、深層の構造なり意味なりを考えることは捨てる(←ただ私が勉強したくないだけ)。

 それから大先生はフローベール研究者だから、本書も当然、フローベール風ということにして(何といっても自由間接話法。それと「どうしても必要な説明すら抜きにして語る」(モーパッサン宛の手紙)ことで、「当時のリアリティ」を重視した書き方(谷口亜沙子さんの解説:フローベール「三つの物語」))、台詞が地の文に埋め込まれ、さらに多くの固有名詞が書き込まれているが、その辺の「解釈」は横において、とりあえず1941年の帝都の雰囲気を味わえばよいということにする(←ただ私が勉強したくないだけ)。

 

 私の感想、あ、印象(大先生が怖いので「印象」に格下げします)。

 形式はフランス文学講座。あるいは映画「風」小説。

 内容。艶笑譚でもあるけど、ひたすら女性がかっこいい活劇。

 

 自由間接話法が駆使されているのは立ち読み(あ、失礼。買ってください)でご確認を。

 最初、私は「この小説は映画にできる」と思ったくらい映像的だと感じた。

 しかし、よくよく考えてみると、やっぱり映像にできない。

 地の文がやがて会話になったり、会話がいつの間にか回想になって回想から地の文に戻ってくる件は、映像にすると、語り手のナレーションに映像がかぶさり、徐々に場面転換・・・くらしか思い浮かばない。うーん、ダサイ。

 最悪、語り手が回想するともやもやと場面が揺れて場面が切り替わるとか?いやいや、こんなの今やパロディーでしか使われない(画面が揺れ始めると登場人物が驚いたりするとかね・・・・・レスリー・ニールセンが死ぬほど出ていた映画でありがちな笑いです)。

 これって、やはり小説ならではの快楽かも。

 いつの間にか回想になり、舞台が帝都東京から第一次世界大戦の西部戦線になっていたり、時間と場所が縦横無尽に動き回る、そのスピード感。

 

 圧巻のX。

 伯爵夫人の真面目なんだけど奇妙な「訓練」が大笑いなのだが、大佐を相手に大活躍した伯爵夫人の脱出劇が素晴らしい(それにしても「金玉潰し」の描写、私はあのたった一文がもう痛くて仕方ない。顔をそむけたいのだけど小説なのでそむけても意味がなく、「わー」と独り言を言ってしまいました。それも意味ないけど)。

 P169くらいまでは回想混じりなのだが、p170から突如ほぼ現在形となり語り手が交代(後退)したような客観的な突き放した描写になる。その疾走感。でもよくよく読むと、やっぱり「わたくし」が主語。

 すごい、大先生。

 

 唐突に出てくる戦場のシーン(VI)。最初は意味がよくわからない。

 そして後半(XI)。ご丁寧に描写をほぼそのまま繰り返し、しかしシーンをさらに長回しして少しクローズアップを多くすると実は・・・という映画にあるあるの伏線回収。お見事でございます(←伯爵夫人風で)。

 

 しかし、この小説。ほとんどの男性が役にたたない。なすがまま。

 笑ったIVと、ちょっとかっこいい(と私は思った)VIIIのp130-134、「魔羅切りのお仙」との短い活劇シーン(ちなみに、ここの映像化はタランティーノ監督で。魔羅切りお仙は、私のキャスティングはユマ・サーマンです。髪型はもちろん「パルプ・フィクション」のボブ・カット。「タショウワー、ナノシラレター、オンナデ、ゴザンス」とあの下手な日本語で言ってほしい)以外、主人公はほとんど屈辱的なほど受け身。

 二郎さんはそう思ってないみたいだけど。それがまたそこはかとなくおかしい。

 それに赤軍女性兵士の逸話。おかしいを通り越して、小気味いい。

 

 インテリの方は、戦場があの人の小説のあそこだとか、大先生が不機嫌になられた(なんで「ミシマユキオ」賞を、よりによって大先生にあげるのでしょうか。気の利いた嫌味でしょうか。こんなに「運動神経抜群」な文章なのに)あのお名前の方が嫌味たっぷりにちらっと出てきたり・・・これ以上は私の教養の限界なので、それぞれでお楽しみください。

 私の教養を超えた部分は、工藤庸子・蓮實重彦「<淫靡さ>について」で存分に語られています。

 私の知識で精一杯なのは、「熟れ・・むにゃむにゃ」が「ゆでたまご」に聞こえるので、おそらく「目玉の話」も重ねていらっしゃるのかなあ・・・・・、あ、大先生、許してください!そんな憐れむような目で見ないでください!私がバカでした!

 

 でも、このままではちょっと悔しいので、一つだけ。

 「さる維納の猶太系医師」が「父親を殺し、母親を・・・」という話が出てくる(p129)のでその関連で。

 その「医師」の説では「父殺し」の起源は女性の独り占めが原因ということになっている。

 ところで、この説、独り占めされた女性たちが「どう感じた」かが抜けている。

 

 考えてみると独り占めといったって、その男性(Urvater)が魅力的でなければ女性たちが相手にしないのではないか。

 女性が気に入らなければ、一人くらい集団にいるはずのバカな男をそそのかして、その男とさっさと逃げてしまえばいい。猶太系医師によれば、この仮説は原始時代なので食べ物とかその辺にあるだろうし。

 それで、二郎さんの名無しのおじいちゃんはどうか。

 彼は、純粋に享楽だけを女性に与えることができる。決して妊娠・出産という「生物学的負担」を負わせない。だから、世界中の高貴な女性の相手をしているという設定になっている。

 もちろん、子をなすことは素晴らしい。私も子持ちなのでわかる。しかし、男性がそれによって背負う生物学的リスクと、女性のそれはまったく異なるのは、家内の様子からある程度は知っているつもりだ。

 

 フロイト先生。大先生のご意見、そうかも。

 原父って「決して漏らさず」の人じゃないと無理ではないか?

 でも、そうなると、「男が独占している」のか「男が独占されている(苦行のような我慢!)」のかちょっと分からない。

 

 あるいは、別の意味で「漏らさない」、その機能を失った名無しの伯爵。彼もそうだ。

 彼は身体的享楽を与えられない。

 しかし、それとは別の、女性としての深い精神的な満足感を、妻に与えられる男性だ。

 

 あ、あと、最後にもう一つ。

 この小説はミステリーではないからネタバレも何もないだろうが、それでも少しぼかして書くと「この子/私/あなたは誰の子か」問題。

 普通に考えると、これを知ることにおいて圧倒的に女性が優位だ。

 さきほどの生物学的リスクとちょうど裏表の話になるが、女性側には「あの時に肌を重ね、その後、確かにこの子をわが胎内で育て、そして、この子を産んだ。それはこの私だ」という厳然たる事実がある。

 一方、男は「この子は私の子か」を確かめる術は、はっきりいってほとんど無い。

 遺伝子検査してもわかるのは確率の高低だし。

  

 さあ、あなたは本当にあなたの「母の子」ですか?

  そうなると、自動的に「誰が父か」も分からなくなりますね。

 

 はい、あなたは誰でしょう? 

 

 

 

蓮實重彦「伯爵夫人」

新潮社    204ページ

1728円(税込)

ISBN 978-4-10-3043539