共同体について考えたいと思っていたら、ある哲学者の方に「そんなに簡単なテーマではありません」と釘をさされたことがある。

 本書は芸術と共同体がテーマ。

 

 

 代表的共同体論が紹介されているので、以下、チャート式に。

 

 ハイデガーの「共現存在」

 現存在は単独でなく、常に他の現存在と共に存在する(p138)。

 

 J=L ナンシーの「無為の共同体」「共存在」

 人間は、孤立して自己完結した主体として捉えられない(p144)。

 主体でも個人individuでも個体性でも自我でもない(p145)、特異性が重要。

 「区別なく、かつ区別された仕方で、同時に単数かつ複数」なありかた(p147)。

 共同体は、目的や企図があるのではなく、すでに生起してしまっていて(p142)「死」を通して開示される(p145)。

 

 アガンベンの「到来する共同体」

 「なんであれかまわないもの」、同一性ではなく特異性が重要(p165-166)。

 可能態である共同体(p169)。

 

 エスポジト

 共同体の語源:「贈与」「義務」。

 際限なく贈与し続ける義務の遂行が共同体。しかし、それは不可能。

 したがって、欠如としての不可能な共同体(p173-178)。

 

 

 ざっくりとまとめると;

 個の集合が共同体になるのではなく、共同体が先で、分割=個人indivduでも同一性をもつ<私>でもない<特異性>が共同体の一部(一員)をなしている。

 

 以前読んだ「明かしえぬ共同体」では、絶対的差異しかなく、共有するものはない、さらに言語活動の無為(理解していれば言語活動は不要、理解できないのであれば言語活動は無力)があり、とはいえ、共同体をなすことの可能性、同時に不可能性が論じられていた(と思う)。

 

 

 

 本書。

 絵画やアートで描かれる対象が、著者のいう表象、つまり何らかの意味を帯びたものから、意味を剥ぎ取られた剥き出しの「露呈=展示」へ移行し、それまでのアートや絵画にあった表象を見に集まる人々という共同性が、露呈では無意味であるために、共同体が成立しがたくなったと指摘されている。

 そして、意味が充満し見る/見せるという暴力性や権力の構造があったかつての絵画の共同体から、現代の無意味な露呈のアート・シーンにおける共同体はどのようなものかが論じられて、結論へ。

 

 

 

 私の宿題。 

 

 私が考える共同体は、治療関係なので素朴に1対多だが、現代アートの場合、1対A1、1対A2、1対A3・・・1対Anという2対の複数になるのだろうか。

 これは1対多の共同体と同じか。

 これのヴァリエーションが1対A対B対C対・・・・という横すべりまたは樹状展開する共同体で、SNSのモデルになるかもしれない。

 

 

 ブランショなどの共同体論でははっきり書かれていないが、共通する理念やら概念は無くても、「参加する」「応じる」といった行為レベルの関係性があることが前提されているように思う。

 そうでなければ烏合の集と共同体の区別がつかない。

 本書の共同性では、どのような行為が関係性を担保するのだろう。

 

 また著者は「見る」はもはや権力ではないと指摘するが、現代でも十分に権力たりえるし暴力でさえあると思うが、どうなのだろうか。 

  

 共同体論は難しい。

 

 

 

 

菅香子「共同体のかたち イメージと人々の存在をめぐって」

講談社選書メチエ    240ページ

1600円+税

ISBN 978-4-06-258646-7