どんな人も、愛してほしい
という本能があります。

人は愛の生き物だからです。

だからと言って
すべての人を感情的に愛するのも
また無理な話です。

ここでいう愛とは
「相手が上手くいくことを
自分の喜びとする考え」
を持って生きることを言います。

どんな人も自分の目の前にいる人が
このような考えを持った人なのかどうかを
一瞬で察知するようにできています。

したがって、この考えを自分
自ら育むことができれば、
周りを穏やかでご機嫌な人に導く生き方を
することができるでしょう。

「相手が上手くいくことを自分の喜びとする考え」
の基本となるのが、相手を応援しようと
考え接することになります。



多く人は期待を愛だと勘違いしています。

期待とは認知脳が生み出す、
勝手に創りだした枠組みを相手に当てはめて、
どこかで見返りを求めている考えに他なりません。

したがって、期待の場合は
相手を主役にした考えではないのです。

期待しているよと言われると一見嬉しいのですが、
実は枠組みがあるのでそれ通りでないといけない
という相手からのプレッシャーを感じ
ご機電な気分にはにはなりにくいです。

いつも期待しているよと言われるのと、
どんなときも応援しているよと言われるのでは
どちらが気分よくご機嫌に感じますか?

応援しているよと言われる方が
無条件にこちらのことを思っているように
人は感じるはずです。



いつでもどこでも
応援してあげると考えて
人に接して生きることから
始めましょう。

どうやって応援するのかとか、
相手は応援するに値するかなど
考えるのではなく、
応援してあげるという考えを
あなたの中に形成していくことが
何よりも大事なのです。

 
「汝自身を敬え」
 
ギリシアの哲学者で
数学者でもある
ピタゴラスは、
著書『金言詩』で
わたしたちに
こう語りかけます。
 
 
すべては自分次第です。
自分を敬う、
つまり
大事にしなければ
何事も始まりません。
 
自分こそが
人生そのものです。
 
この人生を
創造しているのは
他ならぬ
自分自身だからです。
 
  
 
自分自身を
大事にすることを、
多くの人は恐れています。
 
自分を大事にするとか、
自分のためにというと、
自己中心的な生き方だと思われ、
周囲からあまりいい評価や
協力を得られないという
不安や恐れがあるからです。
 
 
けれども自分を敬うことは、
ワガママでも
自己中心的な考えでも
ありません。
 
自分を大事にして、
自分がご機嫌であったり
幸せを感じていたり
するからこそ、
 
社会に積極的に
貢献しようと思えるのが
人間なのです。
 
 
自分を大事にできない人が、
どうして他人のために
行動できるというのでしょうか。
 
 
 
自分を信じましょう。
自分を好きになりましょう。
そして、
自分自身を敬いましょう。
  
 
大きな理由は
なくていいのです。
 
自分を大切にすることが
すべての基本であり、
これからの人生の
支えとなるのです。
 
 
【自分を敬え。超訳 自助論】より

(学研パブリッシング)


脳は、あなたの信念に基づいて働いている。

しかし信念の内容は選ばない。

だから脳は極めて忠実だ。

自分が自分の脳をコントロールしているわけだ。

もちろん善悪の区別もしない忠実者だ。


自分の脳に好きなことを自由にさせることだ。

嫌なことをさせるから三日坊主になる。


脳の主人はわたしだ!前に進むことも、あきらめることも


すべては私の指示なのだ!
【ばか!あほ!まねけ!】



いきなり変な言葉ですいません。


でも、
ばか。あほ。まねけ。・・・といわれたら、
いったいどんな気分ですか?
いやぁ、なんかうれしいなぁ・・・って人はいないですよね。


では逆にあなたが人に・・・ばか。あほ。まぬけ。・・・と言ったらどうでしょう?
いやぁ、言ってやったらすっきりして嬉しくなったわ。・・・本当ですか?
心に嫌悪感・罪悪感が残りませんか。
心の動きはどうでしょう。大きく揺さぶられてはいませんか?!



私たちの心は完ぺきではありません。
たとえ些細な言葉を投げかけられただけでも動揺したりするものです。
また自分から思わず言ってしまった言葉でさえも
後悔して心が揺らいでしまうこともあります。


ここからわかるように、私たち人間は人から言われようが自ら発しようが、
この言葉の影響をストレートに受けているのです。

その言葉で心を揺さぶられ、失意のどん底に落とされたり恐怖心で揺さぶられたり、
または感動して涙したりおかしくてて思わず笑ったり、
時には激しく怒ったりしますし、
時には自らを奮い立たせてくれることもありますね。


耳に入れる言葉はとても重要な意味を持つのですから、私たちは耳に入れる言葉を
選ばねばならないのです。


つまり口から入れる食べ物で体ができているように、
耳から入れる言葉で心ができているのです。


したがって自分の体を大事にしている人は、口に入れる食べ物を考えて選択しているように、
心を大切にしている人であれば、安易に何も考えず手当たり次第に言葉を自分の耳に入れるようなことはしないのです。


最も近くから出ている言葉は自分自身からです。
人から言われる言葉は右から左へと受け流すことができますが、
自ら発する言葉は確実に自分の耳に入ることになりますし頭に残ることになります。


だから、言葉を自分自身のためにも選択する必要があるわけです。


もう一度言います。

「耳から入れる言葉で、
    心ができている!」


                                    のですよ。


忘れないでいただきたい、つらく苦しときもね。
いや苦しい時ほどおもいだしてください。